前回、後白河法皇の波乱の人生?について書きましたが、

亡くなった後も、後白河院繋がりが京都に影響及んでいます。

 

 

 

 

 

結構なお金持ちだった後白河院、

その財産の多くを相続したのは、

覲子内親王でした。

 

 

覲子内親王、わずか11歳で院号宣下を受け、

宣陽門院となります。

 

 

 

 

 

 

宣陽門院は、院が崩御された時、若干11歳。

遅くに生まれた子で、可愛かったみたいです。

(こういう基準での相続人選択は争いの元って気がしますが。

 相変わらず、後先考えないお人で。。)

 

 

 

 

 

この時点で1192年、鎌倉幕府成立の年でしたので、

この後、皇室には承久の乱など、様々なトラブルが訪れます。

 

 

しかし宣陽門院はこの厳しい時代を、乗り切ります。

ずっと、お金持ち状態で。

 

 

 

 

 

なので、後世に大きな影響を残すのは当然なのですが、

もう少し詳しく見ていきたいと思います。

 

 

 

 

 

宣陽門院は後白河院の膨大な所領のうち最大の、

長講堂領を受け継ぎます。

 

 

 

 

その財力は群を抜いており、

源頼朝北条政子も、あいさつに来ています。

 

 

 

 

 

宣陽門院、後白河院が崩御された後も

院が住んでいた六条殿に住んでいたようですが、

 

1208年に六条殿と長講堂が焼失すると、一時的にですが、

土御門東洞院殿に引っ越します。

 

 

土御門東洞院殿は平安京の北辺、

東洞院通りに面した街区に位置します。

 

 

 

 

ここは堀河天皇、六条天皇、高倉天皇が里内裏として

利用していた物件ですが、巡り巡って宣陽門院の

持ち物となっていました。

 

 

 

 

 

宣陽門院は一時利用しかしていなかったようですが、

(六条殿と長講堂をさっさと再建して引っ越した)

後の室町時代に焼失した際に足利義満がふと、

ここを本格的な、古式の内裏にしようと思い立って再建し、

 

 

現在の京都御所の原型となります。

 

 

 

 

後白河法皇が土御門東洞院殿を利用したかは

不明ですが、院の遺産の中に恐らくここが含まれたことで、

宣陽門院から、後深草天皇、そして持明院統の治天の君へと

相続されていくことになります。

 

 

 

 

 

現在の京都の中心である京都御所(の地所)は、

後白河院とつながりがあったんですね。

 

 

 

 

 

そして、後白河院の遺産である長講堂領は、

持明院統の財務面を支え続けていきます。

 

 

 

応仁の乱から戦国にかけ、

所有権がうやむやになった荘園もありましたが、

 

長講堂領が長年財政面を支えた持明院統の、

後花園天皇の皇統は、現在の皇室まで連なっています。

 

 

 

 

いやー、

後白河法皇がこしらえた財産が、

現在の京都御所や、現在の皇室に連なる流れに

関わっていたとは、、、

 

 

 

 

後白河院、

800年前の人物ですよ?

 

 

 

 

 

日本の歴史の深さと凄みを

実感できる事実だと思いました。