彼は几帳面なので、本にコーヒーのしみを付けるなんてことはしないのだが、先日借してもらった「夜間飛行」には、数ページごとに、何かの文章が書かれた紙の切れ端が挟まっていた。
それらは便箋をちぎったような紙であった。全部を合わせれば一枚の手紙として繋がりそうだったけれど、もしかしたら挟んであるページに彼なりの思い入れがあるのかも知れなかったし、何より手紙が出来上がってしまったら、それを読まないでおくという自制心と、読んでしまう好奇心は、あきらかに後者の方が強いことは予想され、それでは彼のプライバシーを覗いてしまうことになるので、結局、紙切れの数々はそのままに、本を読まずに返したのだった。
彼女は自分ではコーヒーを飲めないのにも拘わらず、奇跡的にコーヒーを淹れるのは上手なのだが、夫への不満が口癖になっていて、二言目には口をついて出る。なので彼女の前では落ち着いてコーヒーを飲めないのだった。
「わたし、ガムって苦手なの。いつ噛むのをやめればいいか判らないんだもの。味がなくなったからと言ってはき出すのも、薄情な気がするじゃない?旦那はガムを飲み込んじゃうのよ。子供が真似するからやめて、って言っても聞かないの」
ただ僕が煙草を苦手なのを知っているので、僕の前では吸うのを遠慮してくれる。
僕は僕で狭い歩道を歩くとき、前を塞ぐ二人の女学生を追い越せず、かといって、すみません、と声を掛けることもできず、目の前で振り子のように規則的に揺れるポニィテイルを見ながら、心の中で「フーコーちゃん」とあだ名を付けるのが精一杯なのだった。
彼からの電話は、今からうちで飲まないか、という誘いだった。ワインを開けてしまったのだけれど、独りでは飲みきれなかったと言うのだ。
「スパークリングワインだから保存もできないし、生ハムもチーズもあるし、たまには二人で飲もう」
声の調子から、かなり酔っていることが判る。でも僕は断ってしまった。彼の家までは電車で一時間以上も掛かる上、電話が来たのは午前二時で、終電が終わってしまっていた(始発までかなり時間があった)からだ。
人付き合いが悪い僕を責めないで欲しい。
でも今度からは、誘われたら積極的に足を運ぼうと思っている。
彼女は背後からスポットライトを浴びたときだけ、頭頂部の髪の毛が、数本はねているのが確認できる。イントロはベースだけ。
やがて彼女のボーカルが始まり、ドラム、ギター、鍵盤の順に音が重なって行くのだった。唇がセクシーだと思う。
僕の今日の最大の失敗は、封筒の隅で指を切ってしまったことだ。宛名のところに血が付いてしまった。このまま発送したら、受け取った相手は不愉快だろう。僕だって血の付いた手紙など厭だもの。
指に絆創膏を貼り、もう一度書き直そうとしたのだけれど、新しい封筒が見つからなかった。
仕方がないので、古い映画のフライヤーを二枚重ねて、封筒を手作りした。
ただ封筒の完成度は高かった。これが僕の今日の最大の成功と言えるだろう。
新しい靴を買うことにした。