川越まつりに出かけた時の記録で
まだ書けていなかったけれど
どうしても書きたい事が
あったので、
今から書きます



10月20日に
喜多院様と川越日枝神社様に
お参りした後、
川越氷川神社様と
鰻のいちのやさんに行く前に
夫婦で道を歩いていると、
夫が
「ここに寄ってみよう」と言って、
急に民家の中に
ずんずん入っていったのです

その民家は
永島家住宅と言って、
江戸時代後期に建てられた
武家屋敷で、
川越市指定史跡でした。
普段は土曜しか
公開していないそうですが
この日はお祭りがあった為、
たまたま公開されていたのです。
埼玉県には江戸時代
川越藩・忍藩(現行田市)・
岩槻藩(現さいたま市)と
3つの城下町があり、
たくさんの武家屋敷が
つい最近まで
残されていたのですが
建て替えなどで
今ではほとんど失われてしまい、
当時に近い状態で残っているのは
ここ一軒だけだそうです❗️

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/nagasimake/
https://www.city.kawagoe.saitama.jp/kurashi/bunkakyoyo/oshirase/nagashimake.html
https://www.city.kawagoe.saitama.jp/kurashi/bunkakyoyo/oshirase/nagashimake.html
江戸時代は家老などの
上級家臣の武士だけが
川越城内に屋敷が与えられていて、
それに次ぐ上級家臣は
西大手門外の北側から
追手曲輪の北側堀外と
南大手門の南側に、
屋敷を構えていたそうです。
その他の中級・下級家臣の屋敷は
川越街道沿いを中心に
配置されていたそうです。
城下町である川越市は
軍事上の防衛の観点から
今も鉤状に道が
折れ曲がっているのですが、
永島家住宅の近辺は
その道の形状から、
七曲りと呼ばれているそうです。
永島家住宅は南大手門近くの
上中級武士の武家地にあたる、
南久保町の一角にあります。
永島家住宅に住んでいた藩士は
松平大和守家時代には
①匂坂鹿平(禄高300石・物頭)
②堤愛郷(禄高250〜350石・御典医)
③三野半兵衛(禄高250石・御典医)、
幕末の松平周防守家時代には
④石原昌迪(禄高100石・側医師)だと
記録からわかっていて、
大正6年に東大教授になっていた
石原昌迪の子の久から
永島家が購入した後、
ずっとその子孫が
ここに住んでいたそうです。
からたちの生け垣は
川越藩主が奨励したもので
昔はあちこちに
からたちの生け垣があったそうです。
ガイドさんによると
平成18年に
お一人でお住まいだった
おばあさまが亡くなられた後、
何年かかけて
永島氏より土地と建物が
川越市に寄贈されたそうです。
そんなにも最近まで
人が住んでくれていたお陰で、
永島家住宅の保存状態は
大変に良好なのだそうです❗️

それを聞いて夫と私は
「それは本当に
良かったですねぇ…」と
ガイドさんに申し上げて、
喜び合いました



私は永島家のおばあさまに、
あなたのお住まいだった家は
あなたのお陰で
今も残されていますよ、
ありがとうございますと、
心の中で
お礼を申し上げました


上の写真は
北から撮影したものです。
左側は玄関で、
右側が下男部屋と井戸です。
ボランティアガイドの方の
説明を聞きながら、
住宅の中は立入禁止なので
外側からぐるりと回りながら
私達は見てまわりました。
下の写真は家の東側から
時計回りに回って、
南へ向かう所です。

家の東には
もう一つ井戸があり、
どちらの井戸も
ちゃんと水が出るそうです。

広い土間がある東の部屋の
すぐ横に
井戸があります。

東側には小さくても
きちんと格式を整えた
冠木門があります。
普段家族は北の門から出入りし
藩主のお使いがいらしたり
正式な行事がある時は、
この門を使用したのでしょう。

庭を臨む一角に
小さな記念碑がありました。
「先祖からの貴重な財産を大切にし、
武家屋敷を現代まで残して来た
永島家故人の功を称える。
永島家が武家屋敷として
川越市の文化財指定を受けたこと、
またその土地を市民の共有財産として
川越市に寄付出来た事を
誇りに思う。
七曲りの一部を失った事については
先祖に謝す。
平成二十二年十二月吉日
永島俊三郎
八重子」と
書かれていました。

永島家のご子孫が
どんなに不便でも
屋敷の内外を現代的に改修せず
江戸時代のままで
ここに住み続ける事は、
並大抵のご苦労では
なかったと思うのです。
私の祖父母のふるさとのお寺は
私が子供の頃は
明治時代に建てたものでした。
江戸時代からの広い地所は
明治時代に小学校を建てるという
願いを受けて町に譲り、
山に移転したのです。
家族の住まいは瓦屋根ながら
薪でお風呂を沸かしていたし
平屋で土間もあり、
外には井戸とかまどがあり
お蔵がありました。
漆で黒光りする長い縁側が
ぐるりと巡らせてあり
部屋は障子とふすまでしか
仕切られていないという、
とても古い造りだった記憶があります。
その屋敷は私が小学生の時
伯父伯母といとこ達が住む
近代的で立派な木造建築に
建て替えられました。
祖父母は隣の書院に移りましたが
祖父母が亡くなった後は
いとこの若住職夫妻の鉄骨住宅に
建て替えられました。
ご先祖様から受け継がれた
由緒ある貴重な武家屋敷に対して
強い意志と誇りを持っていないと、
ここを平成まで残す事は
叶わなかったでしょう。
ご子孫の永島ご夫妻は
この武家屋敷がいつまでも
変わらずに受け継がれていくように
一番良い方法を一生懸命考えて
寄付を選択して下さったのですが、
この土地を守り切れなかったのは
ご先祖様に対して
申し訳ないという強い思いが
おありだったのだなぁ…と思うと、
父の建てた
とても素晴らしかった住まいを
父を亡くした後
売らなくてはならなかった
跡取りだった長女の私も、
それがたとえ
どんなに仕方ない選択でも
どうしようもなく
悲しかったので、
そのお気持ちが痛いほどわかって
感動してしまい、
しばらくこの記念碑を見つめて
佇んでしまいました。
この記念碑と御屋敷によって
おばあさまはじめ永島家の皆様の
代々の思いとご努力に
触れたからこそ、
どうしてもこの事を
このブログに残して
皆さんにもお伝えしたいと思い、
今これを書いております。

ガイドさんによると、
おばあさまは普段は下男部屋に
お住まいだったそうです。
おそらく江戸時代の屋敷部分を
綺麗に残す為だったろうと、
私は感じました。

下男部屋には囲炉裏ではなく
炉が切ってあり、
おばあさまは普段
この炉を使用して
いらしたのだそうです。

天井を見ると天井裏がなく
茅葺き屋根の内側が見えました。
武家屋敷は茅葺き屋根なのですが
傷まないように
上にトタンが被せてあるそうです。
ここだけは天井裏を
あえてつけていないそうで、
ガイドさんによると
下男部屋と呼んではいるけれど、
本当の用途は記録がなく
はっきりわからないそうです。
私の妹が最初に結婚した農家も
茅葺き屋根だったし、
夫の伯母が結婚した農家も
同じように今も茅葺き屋根で
上にトタンを被せています。
同じ〜❗️と夫と私は
2人で盛り上がりました



私がガイドの方に、
「茅葺き屋根は、
炭で燻さないと
屋根の茅に虫が涌いて、
かえって傷んでしまうんです。
これは茶道で使う炉ですから
おばあさまは
煮炊きの為ではなく
茅葺き屋根を守ろうとして、
時々炉で炭を熾して
わざわざ屋根を煙で燻して、
虫が涌かないようにされていたのだと
思いますよ。」と
申し上げると、
私よりかなり高齢で
私達の親世代だとお見受けする
男性のガイドさんは、
「えっ、
そうなんですか

知りませんでした
」と

おっしゃっていました。
ガイドさんが
今では失われかけている
大切なこの知恵を、
どうか市の職員と見学客に
お伝えして、
時々燻して下さいますように…🙏
どこか一つの部屋で屋根を燻せば
煙は屋根の茅を伝って
全部燻せるのですが、
今のように
誰も燻していない様子では
茅葺き屋根はそのうち中から
朽ちてしまうかもしれません…

茅葺き屋根のあるお宅では
意識して時々囲炉裏を使う事は
嗜みというか
常識なのですが、
きっとおばあさまは
当たり前の事すぎて
ご子孫にその事を言い置かれないまま
お亡くなりになったのでしょう。
今急に気づきましたが
囲炉裏ではなく
炉が切ってあるということは、
あのお部屋は下男部屋ではなく
わざと山中の侘住いのように設えた
お茶室ですね❗️

後で川越市にお手紙を書こうと
思います。

大正時代になって
永島家が購入してからは
部屋を増築はしたものの、
江戸後期の住居部分は
全く手をつけずに
そのままだそうです。

お庭は溶岩を組んだ
手前の小さな庭園部分と、
寄付する前は
駐車場があったらしい
奥庭と簡素な入口があり、
大きな金木犀がそれは良い香りを
あたりに放っていました


上の写真は
江戸後期から変わらない、
この御屋敷でもっとも格が高い
真南にある八畳のお座敷です。
客間であり家の主人のお部屋
だったのでしょう。
奥には玄関へ直接続く
四畳で横長の次の間があって、
控え室と廊下を兼ねています。
下の写真は座敷の東隣にあり
お付きの控えの間と
廊下を兼ねる役割がある、
縦長の四畳の間です。
さらに、
奥でわかりにくいのですが
板敷きで四畳ほどの
切腹の間があります。
藩から支給された役宅に
切腹を申し付けられた時に
血で畳を汚さないようにする
切腹の間があるのは、
藩士への戒めの為でしょうか

武士の嗜みなのかもしれませんが
穏やかでない呼称なので
何とも言えない気持ちがしました


パネル展示が
わかりやすいです。




座敷には
御典医か側医師の時代に
おそらく藩主から
頂戴したのではないかなぁ…と
思われる、
貴重な江戸時代の時計が
床の間に飾られていました。
家宝だった事でしょう。

下の写真の左側、
突き出たガラス貼りの部分は
トイレです。
右側の座敷前に立つ
曲がりくねった木は、
見事なニワトコの木です。

ハリーポッターの杖がニワトコなのも
ニワトコが神性のある
優れた木だからだとわかって、
良かったです

東南の角の茶の間は
家族の居住スペースで、
家族はここで日中過ごして
寝起きもしていたそうです。

夫が小さい頃住んでいた
ふるさとの祖父母の家は
永島家住宅より狭いくらいの
永島家住宅とほぼ同じ作りの
家だったそうで、
間取りも部屋の用途も
同じだと言って
めちゃくちゃ懐かしがっていました

夫のご先祖様も武士だし
本籍の住所も代官町だから
祖父母の昔の住まいも
おそらく武士の屋敷だったのでしょう。
私は一度も入った事がないまま
人に長い間貸した後
老朽化で平成になってから
取り壊してしまい
今は駐車場なので、
私達は武士の子孫として
永島家の方の気概と胆力に
余計に感じ入りました。

パネルがわかりやすくて
とても良かったです。



はげちょろけでしたが
溶岩の岩組みの横には
棕櫚が立っていました。
南蛮由来の舶来物で
江戸時代は貴重だった棕櫚を配した
結構なお庭だったのでしょうね。

西にある下男部屋には
北側の小さな土間に
なんと一坪くらいの
かまどがあって、
なるほど、
これは下男部屋と
呼ばれる訳だわ❗️と
思いました

幕末から明治に
お茶室として使われていた部屋を
大正になって下男か間借り人が
ここに住んでいたとして、
炉は茶道用のもので
普段は使えませんから
家人に気兼ねなく煮炊きしたり
暖を取る為には、
ここにかまどが
必要だったのでしょうね…。

おばあさまが
最後までお使いだった、
北西にある井戸です。

明治〜昭和頃に増築した
茶の間の北にある
六畳で縦長の仏間で、
土間から直接入れます。

この板の間は
切腹の間ではなくて
仏間の東にあり、
家の北東にある土間に
直接出られる、
四畳くらいの板敷きです。
板の間と茶の間の間には
廊下も兼ねた
畳敷の三畳の間があります。
この導線を見るに、
どうも家族は玄関は使用せず
土間を玄関代わりに
していたようです。

土間はとても広くて
ガスで沸かす旧式のお風呂や
タイル貼りのかまどと
木とステンレスで作った流しがあり、
「わかる❗️
お寺も昔は
全くこんな感じだった❗️」
「僕のうちも
子供の頃はこうだった❗️」と
2人だけで
おおいに盛りあがりました




私の祖父母の家にも
夫の祖父母の家にも
まさにこんな感じの風呂場があり、
外から薪でお湯を沸かして
おばあちゃんと一緒に
木で出来た小判型の浴槽に入って、
体を洗ってもらったものです


なんなら夫の伯母の婚家は
今は全部ガラス戸で明るいけれど、
土間はこんな感じなのです。

「こういう家に実際に住んで
マッチでガスコンロをつけたり
薪で風呂を沸かしたり
かまどを使っているのを
実際に体験した記憶がある世代は、
昭和の僕達が
きっと最後だろうね…。」
「うん…。
私達でも小さい頃の記憶が
薄っすらあるくらいだもんね…。」
「僕達だったらまだ
ギリギリ住めるけれど、
僕達の子供達は
きっとここには住めないよね…。」
「そうだね。
私達は子供の頃の記憶があって
愛着があるから
何とか住めるっていう、
程度だもんね…。」
「僕、
なんだかここに来たら
おじいちゃんおばあちゃんの事を
色々思い出して、
楽しかった。」
「うん。
私もすごく懐かしくて、
楽しかった。
偶然通りかかって
ここに来られて良かったね。」
「うん。
良かった。」
道に垂れ幕がかかっている
永島家住宅の門の前で、
夫と記念撮影しました。
玄関の門とは別に
北西の角にはお勝手口らしき
お洒落で華奢な鉄の扉があり、
おばあさまはここから
きっと出入りしていたのだと
思いました。

見学する事が出来て、
江戸から私達昭和世代まで繋がる
その時代の息吹と記憶を
感じる事が出来て、
本当に良かったです。
永島家の皆さんと
川越市の皆さんに
感謝いたします。