そのままの私に戻るまで
ひさしぶりにここに帰ってきた
アメブロのアプリを開いて
こうして何かを書き始めるとき
いつもそう思う
私が見るSNSはInstagramがほとんどで
最近ではThreadsも徘徊している
noteの存在も知ってはいる
投稿するとなると
やはりInstagramが多いのだが
Instagramは写真がメインなのだろうから
私は文章を書きたいだけなのに
載せる写真がないってなることがあるし
そもそも長文書く場所じゃないだろう
と思うようになった
Threadsは私にとっては見る場所であり
天才がごろごろいるので畏れ多いし
コミュニケーションが多いのがこわい
諸先輩方が香ばしく燃えているのを見ると
じぶんが物申すのは恐ろしくて
遠くから眺めるだけにしていたい
noteに至っては
アプリをダウンロードしたはいいが
そのまま放置している
私にとってこのアメブロこそ
書くという行為にぴったりな場所なのだ
人生において
自分の想いを吐露しはじめた
安心の場であり
過剰なコミュニケーションがなくて
自分の庭で好きに遊んでいい
みたいな自由度が好きなのだ
なんでまたブログを書いているかというと
書きたい欲が湧いてきたからで
なぜ書きたい欲が湧いたのかというと
数日前から
これまたひさしぶりに小説を読んで
その面白さにまんまとハマり
その著者さんの書いたエッセイを読み
それまた面白くて
私の脳内に新たな刺激が入ったからだ
なんて単純な思考回路なんだろう
と自分でも呆れてしまうけれど
そういうところ嫌いじゃない
見聞きした言葉を自然と取り込み
その言葉を使って思考するのだから
当たり前でもあるんだよ
だったらポジティブな言葉にだけ
触れていればいいじゃないかと
思った時期もあった
感謝、希望、夢、愛、光、、、
みたいなやつ
それはそれでいいんだけどさ
なんてゆーか
なんかさ
そればっかり取り入れてたら
その奥底に抑え込まれた闇が
なんかの拍子に暴発したり
染み出してくるのを感じた途端に
恐ろしくてたまらなくなったんだよね
ポジティブを良しとするとき
ネガティブを悪としていたから
だからしんどくなってたし
自分を見張ってる感じも
窮屈さもあったわけ
そういうときに読む小説は
癒し系というか
自己理解と他者への理解と夢の実現へ
みたいななんかいかにもハッピーエンド
なものばかりを好んでいた
最近は
自分の中の闇というか
卑屈さとか傲慢さ、浅はかさ、狡さ
みたいな隠しておきたいものを
書いてくれている一文を見つけると
ニヤニヤしてしまう
私はどうやら長らくの間
抑え込んだ自分の闇を
小説を読むことで癒している
のかもしれない
ああこんな表現をしていいんだ
という許可された感覚になった
そして自分の過去を
今の私が書いてみたら
また違う形になるだろうな
と思った
今はもう削除してしまったけれど
アメブロは昔
摂食障害を治したくて
そのときの苦しみや葛藤を
書いていたと記憶している
当時はリアルタイムだったから
深刻だったし感情的だった
ここの場所のおかげで
私は自分と向き合う時間を
作ることができたし
そのおかげで摂食障害は寛解した
今のわたしが
もう記憶は薄れているが
過去のことを書いたら
もう少しはユーモラスになるのだろうか
そしてそれは
あの時の私を救えるかもしれない
などとたいそうなことを
思ったり思わなかったり
要はあれですよ
面白い小説とエッセイ読んで
自分も書きたくなっちゃって
ちょうどいいネタがありそうだから
昔の話でも書こうか
とか思っちゃったわけです
なに、この恥ずかしさ
書いてるそばから恥ずかしい
大丈夫ですかね
いま私
自らすすんで黒歴史作っていますかね
いや
ここなら大丈夫
という謎の信頼感
ということで
勢いのまま
謎のエッセイ風味ブログが
始まるかもしれませんし
翌朝起きて
我に返って
書かないかもしれません
ここまで読んでもらった方には
何ひとつ有益な情報もなく
なんの癒しもなく
大変恐縮ですが
今後書くとしても
こんな感じになると思います
結果や効率ばかり求める世間から
逸脱した場所であることが
逆に意味がある
などと思ってみたりしました
(私は適当なことを言っています)
ここまで書いただけで
結構気が済んだので
過去話は書かないかもしれないな
なんなんw
役に立たないと存在してはいけない
存在だけで存在してはいけない
この根深い思い込みに気づき
そこから派生する言動行動を手放す
日常の中、人と接するときに
些細なことだけれど
自分の思い込みがあらわれる
自分の行動パターンがあるのだ
ストレッチの誘導をする
それはみんなのためにもいいと思っていた
裏を返せば、私がいないとストレッチできないと
他者をみくびっているし
依存させることになる
私がいないといけない
という状況、環境を作り上げることで
私は必要とされる安心感を得る
そんなことを場を変え相手を変え
ずーっとやってきたのだと気づいた
私の「よかれと思って」は
私が他者より特別になるためであり
純粋な親切心などではなかった
これに気づいたときは吐き気がした
自分自身をも巧みに騙して
本当にその場を思っているつもりだったから。
場に貢献したいなどと
美しい言葉を使っていたけれど
その奥には
自分の存在を特別にしたい
ここに存在していいって承認がほしい
というなんとも痛々しく恥ずかしい思いがあった
わたしのよかれは
他者の能力の開花や成長の機会すら
奪っていたのかもしれないと思うと
なんでもう少し早く気がつかなかったんだ
と悔やまれる
まあ
この片鱗は昨年夏頃からあったのだが
私の強固な暴走したエゴが
そんなわけない!間違えてない!
と頑なになっていたので
こんなに深部まで辿り着けなかったのだ
もういまは
エゴを鎮静化させて
正常な状態に戻してやりたい
という思いの方が強いし
存在回帰
存在として存在する
私として生きる
幸せに生きる
という強大な意図を立ててから
その意図の力のおかげで
氷山の海面下に沈んでいた思い込みが
浮上してきている
気づきが起きたのには
からだの緊張が解けたことも関係している
と思う
瞑想状態で思考が鎮まり
からだの緊張が解けていくのを感じていた
ここ数日だった
だからこそ
その静けさの場所に居続けたいと思ったし
静かだからこそ自分の行いに気づいていられる
のだろうなと思う
見張るのではなく
観察する時点
私がずっと欲しかった視点を
今日持つことができた
気づきは思いのほか深くて
居た堪れなくなる痛みを伴うけど
でも、それは私の内側だけだし
それこそ、エゴがそれを大騒ぎしてるだけ
なんてことしてたんだ!
とか
もういいから
だってこんなの
普通に生きてたら一生気づかないかもしれない
だけど
すごく大きな
私の存在の根本的な課題を見つけた
そんな気がする
ここ数週間
今すでにできてることを
全無視して
自分のことを
足りてない
欠けている
間違っている
と思うようになった
理解できない
わかった気がしない
腑に落ちない
そういう情報を理解せねば
と焦ったのが始まりだったように思う
普段なら
わからないなら
今は必要ない情報だから
置いておこう
と思うのに
取りに行かねば!
と焦ったことで
その視点を忘れさせた
もう完全に成果主義に走ってたよね
何しても自分が足りてないし、
間違ってるし、欠けてるように
思えてくる
そんな日々を過ごして
あまりにも気分が悪いので
さすがに気づいた
無意識の意図が
「私は間違っている」
なので
自分がやることなすこと
全て間違えているように感じ
何か行動を起こすたびに
疑いと叱責が頭の中にこだまする
どんどんやる気がなくなり
身動きが取れなくなって
重たくなっていた
意図って凄まじいよ
これ無意識に設定されちゃうから
自分の内側に意識的であることの
重要さを身をもって感じたよ
存在回帰という
大きな意図を立てているからか
このズレに気づかせて
戻すメッセージが
いくつかきていた
あるメール文章だったり
旦那さんの口を介してだったり
それでも
まだヌルヌルと自責に浸ってて
思考がおかしい
さすがにもう辞めたいと思って
ふとCanonさんの音声を聴く
(私がこういう苦しい時に
戻りやすいのが
Canonさんの音声)
そうだそうだ
そうだった
外に正解を求めなくていいし
私は純正存在だ
そして
外に正解を求めてしまうのも
そういう時もあるだけで
責める必要もない
ホッとして身体が軽くなる
そして
呼吸に戻る
まじで呼吸だけ意識して
ゆるむことだけ意識したら
ストンと正位置に戻る感覚
エゴ大暴走してると
呼吸に意識を向けることすら
しなくなるので
呼吸でゆるめて
下に気をおろして
暮らしたい
あとね
様子がおかしい時に
闇雲に動かなかった自分を褒めたい
無価値観や承認欲求から
動き出したら
変なことになるからさ
それができなくなってるのは
一瞬苦しいけど
余計なものを削ぎ落とした本来の在り方
を求めてるから
ありがたい
んで、
削ぎ落としていく前に
弱くて
汚くて
甘ったれで
浅はかな
自分の存在をちゃんと見てあげよう
と思うわ

