感想


中居君、10kg減量する必要なかったんじゃない?


以上!


なんてねw




話の主題は、戦争の悲劇であると思うけど


それとならんで、家族愛が根底にあるべきものだと思った。


だけれど


この映画には、それがない



史実にある程度、沿っているので致し方ない部分もあるが


これで良いのか


といのが、正直な気持ち。



この映画で、感動したシーンは、


家族が再開したシーンだけだった。


ポスターにもなっているあのシーンだ。


タモリさんは、焼肉だとかジョークをかましてるけどw



雪山で赤子を背負って歩いているシーンは


流石に、演出過剰じゃないか?



豊松が最後に残した言葉


タイトルにもなっている


私は貝になりたい



すべてを否定して、自分の殻の中に閉じこもってしまっただけではないか?


今で言えば、自分の心の中に引きこもってしまっただけじゃないだろうか?



生まれ変わっても、人間にはなりたくない


海の底なら、戦争はない


家族を心配する必要はない


生まれ変わるならば、貝になりたい



映画ではこれが、家族に宛てた遺言状


クライマックスで、挿入されているから


なおさら、強調されてしまっている。




ドラマでは、


精神病になれば、死刑を免れるから


精神異常を装って書いたという設定だったと記憶しているんだが?




家族に対する思いが何もない。


人は死を目の前にしたら、こんなにも心卑しく、惨めな姿になるものだろうか。


ここまで、自分勝手で、


家族にすら、関心をもてなくなってしまうのだろうか?


自分の再審のために、妻が署名を集めてくれたことや


父親がいなくなったあと、家族3人で苦労をかけること


子供たちの将来に対する不安とか


映画は、この部分を、すべてを否定して終わってしまっている。



この映画は、B・C級戦犯の悲劇だけを伝えるものにすぎない。


この映画の脚本家は、大がつく先生で、ご高齢である。


戦争を体験した人とない人とでは、ここまで割絶した開きがあるものなのだろうか?



はっきり言えば、この脚本は、今の時代には合っていない。


受け入れられないと思う。


脚本家が、どの程度創作したのか


原作を読んでいないので分からないが、


遺書を書いた本人が、家族に伝えたかった気持ちは、別物もなんじゃないだろうか?


出来ることなら、結末は書きかえるべきだと、提言したい。




前に、中村獅童で、TVドラマ化したときより


シナリオ自体が、酷くなっているのは、なぜ?



この映画を見終わったあと、


なにも、あとに残るメッセージはない。



久石譲さんの音楽が、こんなにも合わないと思ったのも初めて


生まれ変わったらというイメージで、ロンド風の曲をエンドロールに持ってきたんだろうけど


まったく合っていなかった。


ミスチルの花の匂いも、空しく流れていた・・・





史実の方を読んでみたところ


戦犯で捕まっていた方は、減刑されて


絞首刑を免れたそうだ。


この方が、原作


それに、遺言を書いたのは、別人



そして、問題となっている


私は貝になりたいは、


脚本家が、原作者の許可なく


自分の意見を主張するために、史実を改変した創作だ。




以下ウィキペディアより、関連箇所を引用

異例の再審

1948年12月23日、長女・祈子が誕生したが、同日、横浜の第八軍事法廷において絞首刑の判決を受けた。家族は父の知人であった片山哲や、トルストイの三女でアメリカ合衆国亡命していたトルスタヤなどに依頼し、再審 請求の嘆願を行い、また独自に判決を不当とする証拠や証言を集めた。YWCAYMCAの長老などからも、哲太郎助命嘆願運動への支援が寄せられた。

1949年5月11日、哲太郎の妹である不二子はダグラス・マッカーサー元帥への直訴に及び、不二子はマッカーサーとの面会を許され、助命嘆願文を手渡した。その中で、哲太郎は東京裁判では自分が逃亡を図った俘虜に最初の一撃を与えたと陳述したが、この時間の哲太郎は病院で別の俘虜の盲腸炎手術に立ち会っており、アリバイがあることなどが主張されていた。5月16日、マッカーサー元帥により、異例の再審が認められた。その結果、加藤に好意的な米国人俘虜の証言が発見されたことも手伝い、6月24日、改めて終身刑の判決が下され、即日禁固三十年に減刑された。より正確には、書類審査による再審は加藤の他にも少なくなかったが、マッカーサー直々に原判決を破棄したのは、これが唯一の例である。

ただし、A級戦犯の被疑で収監されていた笹川良一日記によれば、獄中で同室した人物からの話として、「脱走2回の俘虜を死刑する時加藤中尉所長より銃剣を突けと命ぜられたが断り、俘虜が突かれて倒れるのを起こした(中略)所長逃げたため人質の如きもので投獄されてゐる」と書き記している。これによれば、加藤はみずから手を下しはしなかったが、処刑は命じたことになる。


私は貝になりたい

1952年サンフランシスコ平和条約が公布されると、スガモプリズンでは米軍の警戒がゆるむようになった(翌年正式に日本に返還され、東京拘置所と改称)。

哲太郎は岩波書店の『世界』に密かに投稿し、10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」が掲載された。哲太郎は、再軍備や憲法改正への不満をそらすため、戦犯釈放と抱き合わせにしようとしていると吉田茂内閣を批判した。この内容に笹川良一らが怒り、筆者の犯人捜しを行った。しかし岩波書店は筆者を漏らさず、また服役中の戦犯に哲太郎の投稿への支持者も多かったため、やがて沙汰やみとなった。戦犯は、再軍備派と護憲派に割れていたのである。なお、内海愛子は後者を「平和グループ」と称している。

1953年2月、『あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙』(飯塚浩二編、光文社)に「志村郁夫」「戸塚良夫」名義で寄稿した。まだ服役中であり、寄稿者はいずれもペンネームだった。志村郁夫名義で書いた「狂える戦犯死刑囚」では、後に放映されるドラマ『私は貝になりたい』の原作となる遺書が書かれていた。これは、自分の経験や、また一時収容されていた精神病院(精神病と診断されれば、死刑は執行されなかった)に一緒に入院していた人物の言動を元に、赤木曹長という架空の人物に仮託したものである。赤木は俘虜虐待の罪で処刑されたという設定であり、要するに自分もそうなっていた可能性の高い存在だった。しかし、現実には哲太郎は死刑を免れたことは以上に書いた通りである。

1958年4月、残余の刑を免除され哲太郎は出所した。同年10月31日12月21日の二度にわたり、ラジオ東京テレビ(現TBSテレビ)にてドラマ『私は貝になりたい』が放映された。この作品中で主人公が書いた遺書の内容が(一部変えられていたものの)「狂える戦犯死刑囚」のものと酷似していたが、哲太郎の元には何の連絡もなかった。哲太郎は同ドラマの脚本を執筆した橋本忍に、自分の原作権を認め、今後の再放送や映画化に際しては、光文社刊『あれから七年』を原作としてクレジットに入れるよう要求した。しかし橋本は『週刊朝日』に引用された件の遺書を利用したもので、ニュースを材料として自分が創作したものだとこれを拒否。さらに「このまゝ沈黙して呉れるなら十万円を出します。それは私のポケットマネーであって原作料ではない」と発言した。哲太郎は、橋本のこの言動を、自分を強請たかりの類いと侮辱したものと感じた。

1959年1月23日、志村郁夫は自分であると名乗り出て、社団法人日本著作権協議会仲裁委員会を通じ、橋本とラジオ東京テレビは著作権法違反であると申立て、さらに版権を主張した。ただ、『週刊朝日』については、実際の遺書と勘違いしていたと落ち度を認めたため、それ以上の追及はしなかった。その結果、まず東宝との間に、以下のタイトルを入れることで映画化の契約を結んだ。

原作
物語、構成 橋本忍
題名、遺書 加藤哲太郎