令和元年 九月 二十九日
数日前のその日は愛おしい命の誕生日。
毎年健康祈願に伺っていた神社へお礼参りに伺った。
「九(来る)二十九(福)」で「招き猫の日」。彼はこの日に生まれた愛おしい招き猫。
毎年参拝していた。
今回は行くのをためらった。
もう、健康祈願をする意味を成さなくなっていた。
あの日からこれを見ては、時に「願いは叶わなかったじゃないか」と思ってしまった日もあった。
しかし苦しい時間を長時間にさせなかったのは神様の御加護であったのか。
そんな事も考えた。
あたしの、彼の、辛くて濃厚だったあの日々が、お互いに共倒れになる前に心身ともに思い遣れる時の中で見送り旅立てたのは、健康という意味をまた成すのか。
毎年伺った。
この数年は外国人観光客も多い。
この招き猫達の中で。
静かな平日の昼間。
溢れる。思いは溢れる。
涙は溢れる。
手を合わせて。あたしと彼の思いは合わさっていただろうか。
毎年毎年、伺う日は晴れていた。
今年もまた。
幸せでありますように。
どうか、どうか幸せでありますように。
側にいますように。いつも守られている感覚がある。
今年はもう、お札をお返しするのみで新しいものは戴かなかった。
これからはもう、ここに一年に一度通う事も無くなるだろう。
お札を返すのも、外出前にどうしようかと考え込んでしまった。命を見守ってくれたものを手放すのすら惜しい。
だが、これはあたし個人の願いの形なのであって彼を形成するものではないと思い、しっかりと焼いて頂くことにした。
神社の方に「新しいものは宜しいですか。」と尋ねられる。
「もう大丈夫です。有難う御座いました。」
この先はもっと近いところで、神様の側で、神様よりも神様みたいに、幸せであると信じて。
幸せにするのは神様じゃなくあたしであるように自分を戒めて、彼の命を背負って。


