「マチュピチュ村を創った日本人」-3(52年ぶりの帰郷)
1941年、太平洋戦争が勃発し、その影響は南米にも拡大しました。
当時連合国側であったペルーは、日本人移民を次々に捕らえていきました。
もちろんペルー政府は、与吉さんの元にも憲兵を派遣しましたが、
マチュピチュ村の人々は身を挺して憲兵から与吉さんを守りました。
当時連合国側であったペルーは、日本人移民を次々に捕らえていきました。
もちろんペルー政府は、与吉さんの元にも憲兵を派遣しましたが、
マチュピチュ村の人々は身を挺して憲兵から与吉さんを守りました。
1947年、記録的な大雨が発生し、村を土石流が襲った時には、
与吉さんはふさぎがちな村民を励まし続けまいた。
与吉さんはふさぎがちな村民を励まし続けまいた。
村に尽くした与吉さんは、次の世代にバトンを渡すと、
晩年をクスコで子供たちと余生を過ごしています。
晩年をクスコで子供たちと余生を過ごしています。
1958年、三笠宮殿下が村を訪問した際、与吉さんの娘・オルガさんが花束を贈呈しました。
この新聞記事によって、福島にいる親族たちが与吉さんの消息を知ることになります。
野内家の人たちは、与吉さんの旅費を作り出し、
ついに1968年、与吉さんは福島県大玉村に52年ぶりに帰郷しました。
与吉さんの両親はすでに他界していましたが、兄弟や親戚たちが歓迎しました。
この新聞記事によって、福島にいる親族たちが与吉さんの消息を知ることになります。
野内家の人たちは、与吉さんの旅費を作り出し、
ついに1968年、与吉さんは福島県大玉村に52年ぶりに帰郷しました。
与吉さんの両親はすでに他界していましたが、兄弟や親戚たちが歓迎しました。
日本についた与吉さんは「電気は点いたのか?」と質問したそうです。
時間は当時のまま止まっていたようです。
日本滞在中は新聞やラジオにも出演し、半世紀ぶりの帰郷に「現代の浦島太郎」と、
日本でも話題になったそうです。
時間は当時のまま止まっていたようです。
日本滞在中は新聞やラジオにも出演し、半世紀ぶりの帰郷に「現代の浦島太郎」と、
日本でも話題になったそうです。
家族は日本に戻るように説得しましたが、自分の帰りを待つ11人の子供たちを思い、
ペルーのクスコへ戻りました。
そしてクスコに戻ったわずか2ヶ月後の1969年に、家族と200人の村人に見守られながら、
生涯を閉じました。
ペルーのクスコへ戻りました。
そしてクスコに戻ったわずか2ヶ月後の1969年に、家族と200人の村人に見守られながら、
生涯を閉じました。
