「三内丸山遺跡」

三内丸山遺跡の発掘は、1992年に始まりました。
野球場建設が発端で遺跡が見つかり、並行して発掘が行われましたが、
発掘が進むにつれて重要な発見が相次ぎ、1994年には日本中の注目を集めるようになります。
そして野球場の建設は中止となり、さらに詳しい調査が行われました。
その結果、三内丸山の遺跡は、5500年前から4000年前のおよそ1500年間継続された、
集落であることが分かりました。
ちょうど縄文時代の前期から中期にかけての時代で、それまで縄文人といえば、
食料を求めて住居も転々としていたといわれていましたが、
そうした考えが一挙にくつがえされてしまったのです。

特徴的な縄文時代の建物といえば、竪穴住居や掘っ立て柱住居です。
一般的な縦穴住居は、直径が3~4メートル位ですが、中には特別大きな住居もありました。
三内丸山には長さ32メートルのけた外れた大型竪穴住居があり、
これは集会場や共同作業場に使われていたと考えられています。
三内丸山には700以上もの住居跡が確認されています。
これまで縄文時代の人々は4~5棟ほどの小集落を作っていたと見られていましたが、
そうした考えがくつかなされました。
そして現在の人々を驚かせたもう一つに、大型掘っ立て柱構造物でした。

遺跡の北側に直径2メートルを超す穴の跡が6つ見つかったのです。
その中には直径1メートルのクリの木の柱が見つかっています。
穴は2メートルも掘り込まれ、柱を固定するために周りの土も固めていることがわかりました。
このことは高くて重さのある柱を支えることを示し、
その高さは20メートルほどが想定されます。
6階建てに相当するビルの高さで、神殿、物見やぐらなどの説があります。
さらに確認された柱の間隔は、タテもヨコも4.2メートルになっています。
またその他の建物の柱の間隔や長さを調査した結果、どこも35センチの倍数となっていました。
これは縄文時代に35センチを基準とする長さの単位・縄文尺があったと考えられます。

大型の建物から推測できることは、おお人数で共同作業ができる労働力と技術があり、
それを統率する社会組織がすでに確立していたと考えられます。