◆縄文前期(7000年前~5500年前)


「東京の縄文時代」-10<縄文前期>-1(北区清水坂貝塚 八王子市椚田第Ⅴ遺跡)


「本格的な住居の出現」


羽状縄文をつけた平底深鉢型の土器を使うようになってからを、
縄文時代前期(7000年前~5500年前)といいます。
早期(1万2000年前~7000年前)後半以来の気候温暖化はこの頃に頂点に達し、
次の中期(5500年前~4500年前)まで続きます。
東京湾の海水面は現在よりも3メートル前後上昇し、
荒川谷や多摩川谷の奥まで海水が進出していました。
多摩川谷では、川崎市千歳子母口貝塚が約7000年前の早期後半に作られました。
また荒川谷の右岸に面する北区上十条にあった「北区清水坂貝塚」からは、
前期(7000年前~5500年前)始めの「花積下層式土器」が、
海産の貝類や獣骨とともに発見され、これが東京最初の貝塚とされています。


清水坂貝塚の「花積下層式土器」には、前期的な「羽状縄文」と貝殻の背をおした文様、
「貝殻条痕文土器」も一緒に発見されており、早期(1万2000年前~7000年前)の、
「条痕文土器」から移り変わる姿を示しています。
縄文前期(7000年前~5500年前)前半の「羽状縄文土器」は、
花積下層式→二ッ木式→関山式→黒浜式と細かく分けられています。


羽状縄文とは、撚り方が逆向きのヒモを2本並べて土器面に転がした文様で、
向きの違う文様が鳥の羽のように向かいあっています。
また土器の粘土に繊維を多く含んでいるのも特徴です。


前期(7000年前~5500年前)前半の遺跡は、埼玉、千葉、茨城に多く、
東京はあまり多くありません。
おぼれ谷が細かく入り込んだ大宮台地や下総台地に比べると、
武蔵野台地への海の進出は少なく、生活環境があまりよくなかったのでしょうか。
都内の海岸部では、「清水坂貝塚」と「北区飛鳥山貝塚」が、
前期(7000年前~5500年前)前半の貝塚で、
前期後半になると荒川谷や多摩川谷に面する武蔵野台地に貝塚や集落が増えていきます。


内陸の多摩丘陵で珍しい前期(7000年前~5500年前)前半の住居跡が発見されました。
八王子市椚田(くぬぎだ)町の「八王子市椚田第Ⅴ遺跡」で、
花積下層式の竪穴住居跡は6×4メートルの長方形で、
床に6つの柱穴と壁際に小さな柱穴がめぐらされていました。
北側の床面には焼土と石のある炉跡があり、住居跡内からは「花積下層式土器」と、
打製石斧、磨製石斧、それと磨石、石皿という植物質食料を砕く道具が出ています。
この例により屋内に炉を持ち、柱と屋根がきちんと配置された本格的な住居の形が、
定着したこと、花積下層期から関山期にかけて、
ここからは1軒分の小集団しか生活していなかったこと、
植物質食料を多くとっていたことなどが推定されます。


この頃の南関東の海岸台地では、前期(7000年前~5500年前)前半には、
5~10軒くらいの住居で、中央の広場を囲む環状集落がつくられるようになっていましたが、
丘陵地域では小さな集落が散らばっている程度でした。


*繊維土器:関東地方の早期後半から前期前半に見られる特徴的な土器。