Tonko's  Blog


「日本人のルーツ」-5(巨大噴火に消えた黒潮の民)-2


それを期に、彼らは船を使うことを覚える。
人類がどのように海を越える知恵を持ったのか。東南アジアは竹の産地である。
彼らは竹のイカダを作って海に漕ぎだした。川を渡り川を下り近くの島に渡る。

そして海に漕ぎ出したのであろう。
彼らは、竹のイカダから丸木舟をつくることを発見する。
あるものはオーストラリアへ、あるものはフィリピンへと散らばっていった。
フィリピンにポリリョ島がある。

ここには「ルマガット」という海から来た人という意味の人たちが暮らしている。
その島には、ホモサピエンスの特徴を今なお残している人々がいる。

「スンダランド」が水没し始めた時の人々である。
彼らは海辺に暮らし、今なおむかしながらの丸木舟を作って海とともに生活している。

海流漂流民の誕生である。
しかしながら、フィリピンから「港川人」の見つかった沖縄まで1千キロの海が広がっていた。
それを可能にしたのがフィリピンから沖縄にかけて流れる黒潮だった。
フィリピン国立博物館に謎を説くものが展示されている。

それはパラワン島で見つかった4000年前の「丸ノミ石斧」だった。
木をくり抜くのに都合のいい形をしている。これは沖縄から出土した石斧と共通していた。
黒潮を利用した「丸ノミ石斧文化圏」が成立がことが考えられる。
困難な航海の末にたどり着いた南の島の人は、この沖縄で生活を始める。
「港川人」の人骨は小柄できゃしゃ。レントゲン写真から、採収が主で、

栄養に乏しい人々であったようである。
港川遺跡からは、イノシシやリュウキュウシカなどの小型の動物の骨ばかりだった。
「港川人」と南九州を結びつける痕跡はなかった。

彼らの時代には、黒潮が邪魔をして南九州にはたどり着けなかったのである。
しかし、温暖化がさらに進むと親潮は弱まって日本列島に近づき、

さらに分流は対馬暖流となり、九州の西を北上して日本海にそそぐようになった。


1万2千年前にようやく彼らは九州に到達した。

それは鹿児島を中心に「丸ノミ石斧」が出土したことで知ることができる。
南九州に上陸した海の民は、豊かな森に遭遇する。
地球の温暖化と暖流黒潮の影響を受けて、

いち早く照葉樹の森が広がっていったのは南九州だった。
照葉樹の仲間には、シイの木がある。ドングリの仲間だが、渋がなく生でも食べられる。
またヤマモモやヤマノイモも容易に手に入った。森の恵みを受けて、

海の民は安定した生活が送れるようになった。
こうして日本で最初の大きな定住集落をこの地に持つことになる。
食料を求めて移動する生活から定住する生活が、ここから始まったのである。
上野原遺跡からは「磨製石斧」が出土する。この斧で森を切り開いていった。

それは「丸ノミ石斧」と共通する方法で作られていた。
表面を石でたたいて形を整え、砥石で表面全体を磨き上げ、刃の部分を鋭くとがらせた。
大小さまざまなバリエーションに富む「磨製石斧」は、いろいろな用途に合わせて作り出された。
それは海の民が使用していた「丸ノミ石斧」を改良して、

森の伐採に適用した「磨製石斧」をこの地で開発していったと考えられる。


一般には2300年前の弥生時代の稲の貯蔵や、

運搬などに「壺型土器」が発達したと考えられている。
上野原遺跡の「壺型土器」は、用途が同じと考えると、

稲に変わる穀物類の栽培をしていた可能性がある。
そこで「プラントオパール」の研究が進められた。
「プラントオパール」とは植物細胞の中に含まれるガラス質の物質である。

形の違いで植物を特定できる。
調査結果は、ヒエ、ハトムギ、アワなどの雑穀が初めて検出された。
彼らは他に先駆けて雑穀を栽培していた可能性が高い。
こうして3000年にわたって南九州一帯で独自の文化を作り上げて繁栄が続いた。
しかし、6300年前、鹿児島沖の海底火山、鬼界カルデラが大噴火を起こした。
フィリピン・フィナツボ火山噴火の15倍といわれている。南九州の集落を襲った。

厚い火山灰の下に埋もれてしまった。


上野原遺跡は、1997年の工業団地造成で見つかるまで、その存在は全く知られていなかった。
では、彼らの滅亡で彼らの知恵は何も残さなかったのであろうか。

黒潮の民の痕跡が太平洋沿岸に見つかっている。
高知県大正町で「磨製石斧」が発見された。貝がら模様の土器も見つかっている。
これらがほかの縄文土器と一緒に発見された。

この地の人々と黒潮の民が混じり合って暮らしていたことになる。
また和歌山でも「磨製石斧」が見つかった。
それは、南九州に独自の文化を築いた黒潮の民は、高度の航海術と森を開く道具を携えて、

東へ東へと散らばっていった。
「港川人」など、海を越えてやってきた南からの民の遺伝的要素が、

その後の縄文人に確実に受け継がれていることが分かってきた。
顔の形や頭の形が縄文人によくにていて、「港川人」がそのまま縄文人になったと言える。
東京・4500年前の縄文時代中期の多摩ニュータウンの遺跡から、
南九州で見られた森を切り開く石の斧「磨製石斧」と同じものが大量に見つかった。
黒潮の民が日本にもたらした知恵は、北の人々の知恵と混じり合って、

縄文文化を築いていったのである。