●「吉原」


江戸の遊里である吉原の由来は、葦(ヨシ=アシ)の生える原っぱらにあるようで、
葦の原の湿地帯に遊里ができた。葦(ヨシ)が吉になったといわれている。
もう一つの説は、遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が、

東海道の宿場・吉原宿出身であったためとも言われている。



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●「元吉原」

木場で働く男たちの間では、気風が重んじられた。男気は自然、色事に染まるようになる。
材木問屋と遊郭は密な関係にあったようだ。

材木問屋街は、今の中央区日本橋あたりにあったようで、
遊郭は現在の日本橋人形町周辺のヨシの原にあったらしい。
江戸市中に散らばっていた遊女屋は、日本橋葦町(日本橋人形町)あたりに、

廓(くるわ)として統合されたのである。
木材の商いで巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門たちの豪遊が知られている。
しかし、度重なる大火で材木問屋も移転せざるを得なくなり、隅田川を渡ることになる。



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現在は江東区に木場の地名はあるが木場はなく、

さらに南の有楽町線の新木場駅周辺に移転している。
地下鉄東西線の木場駅には「木場」の町名が残るだけである。
それに伴って従来の日本橋葦町(日本橋人形町)とは別に、

この周辺にも遊郭が立ち並ぶようになる。
現在の江東区東陽にあった洲崎遊郭がそれで、大門があったらしい。
日本橋葦町を北里(ほくり)と呼び、その南東にあたる方角から、

辰巳(たつみ)と呼ぶようになった。
辰巳風は深川文化であり、深川っ子文化であった。
執着心がなく侠気(きょうき)つまり男気があることが粋といわれるようになる。
紋付の羽織に袴姿は、それまでは下級武士と名主・庄屋のものであった。
ところが家光の頃になると、紋付羽織袴が男の礼服になっていく。
辰巳には辰巳芸者(深川芸者)がいて、江戸時代、男しか着なかった羽織を着て、

男装を装って男名前でお座しきに出た。
気風は男まさりでおきゃんといわれた。

そして、気風のいい男は、いなせな男という言葉が流行ったらしい。
この北里(ほくり):人形町と、辰巳(たつみ):洲崎が「元吉原」である。