3/18(日)のつづき。。。
赤坂宿終わり~(9.6km-2km)美江寺宿~(4.8km)河渡宿~(5.9km)加納宿西入口まで
11:24 犀川から数分で「美江寺宿京西口」です。
河渡宿7.1Km ←ここは美江寺宿→ 赤坂宿9.2Km


墨俣(すのまた)道 道標 「左 大垣墨俣ニ至 右 大垣赤坂に至」
※墨俣大和街道(すのまたやまとかいどう)は、
現在の岐阜県大垣市墨俣町を通り三重県桑名市まで続く街道です。
奈良時代から平安時代あたりまで人馬の行き来に
奈良時代から平安時代あたりまで人馬の行き来に
利用されていたとされている.。

左に曲がり街中へ進みます。振り返ると↓ 直進


11:25 岐阜県果実苗木農業協同組合
すなみ柿
戦前に岐阜県巣南町で富有柿の中でも他のものに比べて大玉で着色が早い木が発見され、
1988年に県農業試験場で富有柿の新品種
すなみ柿戦前に岐阜県巣南町で富有柿の中でも他のものに比べて大玉で着色が早い木が発見され、
1988年に県農業試験場で富有柿の新品種
「すなみ柿」として認定された柿だそうです。
通ってきた道沿いの木は、柿畑だったのです。
通ってきた道沿いの木は、柿畑だったのです。


11:26 美江寺製油株式会社(プロパンガスの会社)
美江寺宿メイン通りです。

11:17 瑞穂市指定史跡 開蒙学校跡


道を挟み向かい側に
11:27 美江寺本陣跡
11:27 美江寺本陣跡

標石 山本金兵衛が勤め問屋も兼ねていました。老朽化に伴い平成になって建物は壊されてしまいましたが、
古文書は残しています。
古文書は残しています。
美江寺宿は小宿でした。
しかも大雨のの度に長良川の逆水に見舞われ、宿場前後の街道は浸水し、宿としての条件は劣悪で評判は悪く、幕末の頃には、ガラの悪い宿場として恐れられていました。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、
美江寺宿の宿内家数は136軒、うち本陣1、脇本陣なし、旅籠11軒、宿内人口は582人(男302、女280)
幕府領(大垣藩預り)で宿高1,300石であった。
しかも大雨のの度に長良川の逆水に見舞われ、宿場前後の街道は浸水し、宿としての条件は劣悪で評判は悪く、幕末の頃には、ガラの悪い宿場として恐れられていました。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、
美江寺宿の宿内家数は136軒、うち本陣1、脇本陣なし、旅籠11軒、宿内人口は582人(男302、女280)
幕府領(大垣藩預り)で宿高1,300石であった。
ここまで、19,928歩、11.9Km、2時間58分歩きました。
ちょっと休憩。
朝食用だったおにぎりと茹で卵食べて、ちょっと力が出てきました。
朝食用だったおにぎりと茹で卵食べて、ちょっと力が出てきました。
11:34 再スタート!
11:36 美江寺信号交差点
手前に「庄屋和田家」 旧美江寺城主和田氏の末裔



11:37 美江神社
石の鳥居です。

拝殿 裏に本殿




美江寺公民館 地蔵堂


美江寺観音堂


美江寺宿の石碑



境内には高札場が復元されています。


美江神社出てすぐ左の道
11:46 美江寺観世音道
美江神社の裏辺りに観音堂があった。
11:46 美江寺観世音道
美江神社の裏辺りに観音堂があった。この地域は長良川や揖斐川などの氾濫によく見舞われていたので、
奈良時代の初めこの地域を氾濫から守ろうと考えた住民達は、
伊賀国にあった十一面観音をここへ移し大伽藍を建立して祀り、
それ以来、川の流れが穏かに美しくなり、
奈良時代の初めこの地域を氾濫から守ろうと考えた住民達は、
伊賀国にあった十一面観音をここへ移し大伽藍を建立して祀り、
それ以来、川の流れが穏かに美しくなり、
人々はこの寺を「美江寺」と呼ぶようになったという由来があります。
その後岐阜城主の齋藤道三によって、この寺は岐阜へ移転させられた廃寺になり、寺名だけは残ったそうです。
その後岐阜城主の齋藤道三によって、この寺は岐阜へ移転させられた廃寺になり、寺名だけは残ったそうです。
美江寺観世音道 は、神社の石垣に沿った左手の道

11:47 店先に古い農具を発見した夫


11:48 表具屋さん? ふすま、障子の張替え


11:48 岐阜新聞

11:49 造り酒屋「布屋」 美濃菊
元禄九年(1696)の創業、
濃尾地震で宿内唯一残った商家
推古天皇の時代聖徳太子の側近として仕えた秦河勝の末裔らしい。
秦始皇帝の末裔伝承を持つ秦河勝は、当時の渡来系氏族秦氏の首長で、京都の広隆寺を造立したことでも知られています。
また、猿楽(さるがく)=<能楽>の始祖とも伝わっているとか。
http://genbun.sakura.ne.jp/page017.html
http://genbun.sakura.ne.jp/
元禄九年(1696)の創業、
濃尾地震で宿内唯一残った商家
推古天皇の時代聖徳太子の側近として仕えた秦河勝の末裔らしい。
秦始皇帝の末裔伝承を持つ秦河勝は、当時の渡来系氏族秦氏の首長で、京都の広隆寺を造立したことでも知られています。
また、猿楽(さるがく)=<能楽>の始祖とも伝わっているとか。
http://genbun.sakura.ne.jp/page017.html
http://genbun.sakura.ne.jp/

布屋の裏に中小学校内に「美江寺城址」碑がある。
美濃國守護職士岐氏の家臣和田氏の居城
天文十一年(1542)斎藤道三に攻められ落城となった。
美濃國守護職士岐氏の家臣和田氏の居城
天文十一年(1542)斎藤道三に攻められ落城となった。
11:50 瑞穂市指定史跡 自然居士(じねんこじ)の墓


千躰寺のところでも説明しましたが、千躰寺には、
自然居士(じねんこじ)作の阿弥陀如来像千躰が安置されています。
鎌倉時代の遊芸僧で、禅宗系の説経者。
和泉の国(大阪府)に生まれ、京都の東福寺大明国師のもとで修行したが、奇行遊行僧。
日本の民族楽器簓(ササラ)を摺り、歌い舞いながら説教したので簓太郎とも呼ばれた。
中世芸能にとっての始祖的存在であり、
遊行の途中、美江寺の地にとどまり、千躰仏を彫ったと言われています。
和泉の国(大阪府)に生まれ、京都の東福寺大明国師のもとで修行したが、奇行遊行僧。
日本の民族楽器簓(ササラ)を摺り、歌い舞いながら説教したので簓太郎とも呼ばれた。
中世芸能にとっての始祖的存在であり、
遊行の途中、美江寺の地にとどまり、千躰仏を彫ったと言われています。
阿弥陀如来の千躰が、どうも仏像に見えなかったのが納得です。
彫るという字に竹冠がついて簓(ササラ)の演奏の方がお得意だったようです。
彫るという字に竹冠がついて簓(ササラ)の演奏の方がお得意だったようです。
実は、伊丹市にもお墓があります。
自然居士の墓や庵・井戸などが兵庫や京都・泉州など各地に伝えられていますが、
自然が誰なのかはまだわかっていないようです。
自然居士の墓や庵・井戸などが兵庫や京都・泉州など各地に伝えられていますが、
自然が誰なのかはまだわかっていないようです。
11:51 標石「瑞穂市指定史跡 美江寺宿一里塚跡」


塚はない。
11:51 信号「美江寺大門裏」
左手奥の方向には「瑞光寺」がある。美江寺宿本陣を勤めた山本家の菩提寺。
芭蕉句碑がある。
「旅人と 我名呼れん 初時雨」
11:53 谷汲追分道標 美江寺宿の江戸東口です。
「右 岐阜加納ニ至左 北 方谷汲ニ至ル」
「右 岐阜加納ニ至左 北 方谷汲ニ至ル」



今回の最終駅は、
ここ「 樽見鉄道線美江寺駅」
あるいは「JR岐阜駅」しか選択肢はない。
遠いが、あと7~8Km 頑張って歩こう!
11:54 樽見鉄道線美江寺踏切
近くに「美江寺駅」がある。
近くに「美江寺駅」がある。


美江寺宮前町信号を過ぎる辺りから殺風景になった。現在の国道92号 岐阜巣南大野線の道
江戸時代には、松並木が綺麗だったらしいが、
戦時中に松根油採取の為、伐採されてしまったという。
美江寺五六町信号過ぎたあたりに見たものは。。。12:03「昭和51年9月12日台風17号実績浸水深」位置を示している。
長良川の堤防が決壊した時なのだろう。
http://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/bosai/shizen-saigai/11115/siryou/9-12gou.html
間もなく五六川。。。
12:03 五六川(五六橋)までやってきた。
河を渡ると、いよいよ河渡宿に入っていく。
河を渡ると、いよいよ河渡宿に入っていく。
つづく。。。
美江神社