2/17(土)の日記のつづき
垂井宿~青墓宿~(5.9km)赤坂~(約5Km)美江寺宿手前まで歩きます。


10:21  駒引(こまびき)稲荷神社を後にしてイメージ 1
不破郡から大垣市に入り間もなく。。。



10:28 ★ 神宮常夜燈 巨大です
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大正五年(1916)十月の建立
この常夜燈の前に「史跡中山道一里塚跡碑」
「青野ケ原の一里塚跡」です。
江戸日本橋より数えて百十一里目です。

この辺りは青野ケ原と呼ばれています。
美濃の由来はここ青野ケ原、加納の各務野(かかみの)
揖斐川上流の大野の三野をみのといい、これが美濃に転化したものです。


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10:29  地蔵堂 堂内に地蔵坐像


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10:31  ★常夜燈型国分寺道標
「国分寺道」「薬師如来御寶前」
イメージ 5北へ300m先に美濃国分寺跡がある。
その北側には薬師如来坐像(国重要文化財)が祀られている
国分寺がある。道標はそこへ導くために建てられた。
残念ながら立ち寄らない。(写真はネットより拝借)
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美濃国分寺  立ち寄らない。(写真はネットより拝借)
イメージ 7美濃国府(垂井町府中)や不破関に近い青野が原の景勝の地に建立された。
背後に山が控え、南は東山道に面して建立された。
わずかに塔跡を残すのみで埋もれていたが、
昭和43年から継続的な発掘調査によって
伽藍の全容が次第に明らかになった。
東西230m、南北250m以上をしめ伽藍の配置は、
塔を回廊内に建てる古式の様式を持ち、建物基壇
はせん積みという特異な形であった。
創建期の国分寺は887年の火災によって焼失。
以後幾度となく堂宇の修理が行われたようである。
国分尼寺跡は国分僧寺であった美濃国分寺跡の西方700mの垂井町平尾にある。


★教覚寺の並びに稲葉石見守正休公碑
イメージ 8教覚寺は、春日局ゆかりの寺
三代将軍家光の乳母となり、その後大奥で権勢をふるった春日局は乳母となる前は美濃の稲葉正成の妻であった。
ここ青野は稲葉氏の領地であり、稲葉氏は教覚寺の再建に力を尽くしたという。
貞享元年(1684)治水事業から外された恨みから、江戸城中で大老堀田正俊を刺殺し、自身は居合わせた老中大久後忠朝(ただとも)等に斬殺されました、正休は享年四十五歳、稲葉家はお家断絶。


中山道 青墓宿に入ります(垂井宿と赤坂宿の間の宿)
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10:40 大谷川の橋を渡り、左へ進みます。
青墓宿は、鎌倉時代東山道の宿駅として栄え
「遊女の里」として知られていました。
「史跡の里 青墓町」








10:42 ★圓願寺芦竹庵(よしたけあん)標柱
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イメージ 14牛若丸(後の源義経)が、京都の鞍馬山で修業を終え、金売吉次を供にし、奥州平泉へ落ちのびる際、圓願寺(圓興寺の末寺、源氏一族の菩提所)で休み、源氏が再び栄えるように祈りました。
その折、杖にしてきた芦(あし)の杖を地面に突き刺し、「さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば、よし竹となれ」の歌を詠み東国へ旅立ちました。
その後、芦は大地から芽をふき根を張りました、そしてみごとな枝に竹の葉が茂りましたが、根や幹は元のままの芦でした。
この珍しい竹は芦竹(よしたけ)と呼び、圓願寺を芦竹庵と呼ぶようになりました。
五輪塔がある。
★小篠竹(こしのだけ)の塚
青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。照手姫は東海道藤沢にも出せり。
その頃両人ありし候や詳ならず。(木曽路名所図会より)
  一夜見し 人の情に たちかえる 心に残る 青墓の里   慈円
照手姫の墓と伝わっています。
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★「照手姫水汲み井戸 道標」
右に曲がってみると右手に見えた木々が生い茂る所。
そこまで行きたいが、夫は見向きもせず行ってしまった。手前のは違います。
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遠望                                                  ★史蹟 「照手姫水汲み井戸」(ネットより拝借)
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照手姫・小栗判伝説は、関ヶ原宿でも出てきましたが。。。
武蔵相模郡代横山将監の娘で絶世の美女照手姫は常陸国司の小栗判官正清と恋仲になるも、判官は毒殺され、姫は人さらいにさらわれてしまった。
照手姫は青墓長者に売られたが、客取りを拒否した為
長者より籠で井戸水を汲めといういじめにあう。
毒に倒れた判官は熊野の湯につかって蘇り、姫を迎えに来たといいます。めでたしめでたし♪

街道沿いのこの辺りも大きな家が多い。
新しい家のようですが長屋門や寄棟造りの屋根。
土台は古い石組の上に立て替えたのでしょう。
大きな蔵のある家もありました。
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10:48  国宝 観音菩薩圓願寺 寺標
イメージ 23北1.7Km先に位置し、延暦九年(790)創建の天台宗の古刹です。
本尊の木造聖観音菩薩立像(国重要文化財)は最澄作と伝わっています。
天正二年(1574)織田信長の焼討にあった際、本尊が勝手に動き、石の上に難を逃れたといい、このことから石上観音と呼ばれています。



イメージ 24圓願寺寺標  先突き当りに
★白髭(しらひげ)神社
毎年十月末第2日曜日の祭礼に大太鼓踊りが奉納されます。
伝承によると農民の雨乞い祈願や豊作踊りといい、大垣市重要無形民俗文化財。





10:49  浄土真宗本願寺派國府山延長寺
イメージ 25山門は青野城表門を移築したもの。
先に見た稲葉石見守正休公碑つながり。
春日局と稲葉正成の子正次(まさつぐ)は、五千石の所領を与えられ青野村に居を構え、
天和元年(1681)子の正休(まさやす)は若年寄に就任し、青野藩一万二千石の大名となり青野城を築城しました。

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10:50  大垣市立青墓小学校が見えます。






10:51 廃屋などもあり古い家並みもあります。
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倉庫を過ぎて左手の方に。。。
★国指定史跡 粉糠山(こぬかやま)古墳
イメージ 284世紀末-5世紀初頭  長さ100mの東海地方最大の前方後方墳です。
粉糠山は青墓宿の遊女達が化粧に使った粉糠(こぬか)が積もり、山になったという伝説に由来しています。
この地は古墳が多いところから大墓(おおはか)と呼ばれ、これが青墓(あおはか)に転化し地名となりました。
現在の墳丘上は共同墓地として利用されています。
遠望です。立ち寄りません。


10:53 高架をくぐると「昼飯町」です。
イメージ 29昼飯には、ちょっと早い時間です。










つづく。。。