2/17(土)の日記のつづき
垂井宿~(5.9km)赤坂~(約5Km)美江寺宿手前まで歩きます。
枡形道を通り過ぎて間もなく。。。垂井町福祉会館が見えてきた。
その裏手方向には、紙屋塚があるらしいが、
その裏手方向には、紙屋塚があるらしいが、
曲がる路地が分からなかった。
★紙屋塚(町指定史跡)
垂井は古代の国府近くに位置し、官設抄紙場ともいえる紙屋があり垂井の清水を利用して紙を漉いていたと思われます。
美濃紙の発祥地ともいわれており、紙屋の守護神「紙屋明神」が祀られています。
またここの神長(抄紙場長)に阿曇兼遠が任命されたり、紙漉の技術者宇保良信がここに
垂井は古代の国府近くに位置し、官設抄紙場ともいえる紙屋があり垂井の清水を利用して紙を漉いていたと思われます。
美濃紙の発祥地ともいわれており、紙屋の守護神「紙屋明神」が祀られています。
またここの神長(抄紙場長)に阿曇兼遠が任命されたり、紙漉の技術者宇保良信がここに
勤めていたともいいます。 (写真はネットより拝借)


09:43 東の見付跡 垂井宿江戸(東)口 相川橋の麓右側になる。


地図の中央にJR垂井駅が確認できます。参考までに。。。
JR京都駅~新快速で米原。普通大垣行に乗換垂井駅まで1時間半ほどで片道1660円です。




案内板より
垂井宿は58番目、ここの東の見付から広重も描いた西の見付まで、長さ約766mの宿場でした。
見付は宿場の入り口に置かれ、宿の役人はここで大名やお茶壷日光例幣使などの通行を迎えたり送ったりしました。また、非常事態が発生した際には閉鎖することになっていました。
垂井宿は58番目、ここの東の見付から広重も描いた西の見付まで、長さ約766mの宿場でした。
見付は宿場の入り口に置かれ、宿の役人はここで大名やお茶壷日光例幣使などの通行を迎えたり送ったりしました。また、非常事態が発生した際には閉鎖することになっていました。
(中山道の宿場の番号が垂井宿が58番目で広重の絵の宿場の番号と同じですが、資料によると江戸は基点、京都は終点になっており、それを採用しここでは57番目の宿場と数えています)
相川の人足渡跡


相川は昔から暴れ川で、たびたび大洪水がありました。
そのため、江戸時代には人足渡しによる渡川が主でした。
川越人則は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていました。
一方、朝鮮通信使や姫宮などの特別な通行があるときには、木橋がかけられました。
川幅約100mのこの川は大井川と同じ。
天保六年(1835)以後、渡川は一切人足渡になっていた。
享保八年の人足渡し賃(一人)
一、ちち(胸)切水 四十五文
一、腰切水 二十四文
一、ひざ上切水 十六文
天保六年(1835)以後、渡川は一切人足渡になっていた。
享保八年の人足渡し賃(一人)
一、ちち(胸)切水 四十五文
一、腰切水 二十四文
一、ひざ上切水 十六文
相川は関ケ原宿北部の伊吹山南麓の明神の森に源を発し、流末は杭瀬川に落合います。

現在、垂井町相川水辺公園の鯉のぼりは有名です。
(鯉のぼりは3月24日から5月6日まで) 写真はネットより拝借
(鯉のぼりは3月24日から5月6日まで) 写真はネットより拝借

09:45 相川橋を渡ると「相川橋北」交差点


09:48 ★垂井追分道標(垂井町指定史跡)



道標は高さ1.2m、幅40㎝、
表「是より 右東海道大垣みち 左木曾海道たにぐみみち」
裏「宝永六己丑年十月 願主奥山氏末平」
表「是より 右東海道大垣みち 左木曾海道たにぐみみち」
裏「宝永六己丑年十月 願主奥山氏末平」
垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、
たいへんにぎわう宿場でした。
追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。
たいへんにぎわう宿場でした。
追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。
この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で七番目ほどの古さである。
また、ここには高さ2mの享保三年(1718)の角柱の道標もありました。
また、ここには高さ2mの享保三年(1718)の角柱の道標もありました。
徳川幕府は成立直後、日本の五街道を造り、
中山道と東海道を結ぶ街道として美濃路を造りました。
木曽路(中山道)は東海道と並ぶ重要な幹線道路であり、
木曽路(中山道)は東海道と並ぶ重要な幹線道路であり、
大名や姫宮・日光例幣使・谷汲・善光寺参り等の通行がありました。
また美濃路は将軍上洛の道であり、朝鮮通信使及び琉球使節、大垣湊への重要な道でもありました。
美濃路は幕府道中奉行の管轄下に置かれ、大垣、墨俣、起、萩原、稲葉、清洲、名古屋を経て東海道の宮宿に至ります。
美濃路は幕府道中奉行の管轄下に置かれ、大垣、墨俣、起、萩原、稲葉、清洲、名古屋を経て東海道の宮宿に至ります。
背後に「垂井宿 追分庵」覗いていると、通りがかりの人が、
「そこは開いているのを見たことがないよ」とのこと。
室内にはお茶出来るようで、テーブル等が見えた。
09:45 角の道標に従って直進します。


09:53 地蔵堂 馬頭観音堂09:54 喜久一九稲荷神社
明治五年(1872)創建 この地の鎮守です。
社殿前に砲弾が奉納されています。明治三十七~八年の日露戦役に於いて二百三高地から発射し、旅順港内の敵艦バーヤンに命中した28㎝砲弾です。
明治五年(1872)創建 この地の鎮守です。
社殿前に砲弾が奉納されています。明治三十七~八年の日露戦役に於いて二百三高地から発射し、旅順港内の敵艦バーヤンに命中した28㎝砲弾です。


09:56 マックスバリュ垂井店 トイレ・買い物休憩
血液の循環が悪い持病がある夫の手は冷たく、
血液の循環が悪い持病がある夫の手は冷たく、ホカロンを買いたいと。
流石の私も冷えてしまって。。。
流石の私も冷えてしまって。。。
手よりお手洗いに飛び込んだ。
チョコレートも買って、糖分補給で疲れが取れ、ほっと一息、幸せを感じる。
東海道を歩いた時もそうだったように、
チョコレートも買って、糖分補給で疲れが取れ、ほっと一息、幸せを感じる。
東海道を歩いた時もそうだったように、
苦労の中では、小さな幸せを見つけられます☆
喉元過ぎればと申しますが、しばらくそれを忘れていたことに気づきました。
喉元過ぎればと申しますが、しばらくそれを忘れていたことに気づきました。

10:14 追分東交差点
10:18 平尾御坊道 道標

北600m先に「平尾御坊願證寺」がある。
本願寺八代法主蓮如の六男蓮淳が永正年中(1504~20)伊勢長島に一宇を創建し、開基したのが始まりと伝えられ、天正二年(1574)の長島合戦により堂宇はことごとく焼失すると、蓮淳の孫證栄は平尾に移し、真徳寺を再興開基しました。
その後安永二年(1733)に願證寺と改号し、平尾御坊の称を賜ったといいます、
寺裏には蓮如上人御廟と納骨堂があります。
本願寺八代法主蓮如の六男蓮淳が永正年中(1504~20)伊勢長島に一宇を創建し、開基したのが始まりと伝えられ、天正二年(1574)の長島合戦により堂宇はことごとく焼失すると、蓮淳の孫證栄は平尾に移し、真徳寺を再興開基しました。
その後安永二年(1733)に願證寺と改号し、平尾御坊の称を賜ったといいます、
寺裏には蓮如上人御廟と納骨堂があります。
平尾御坊道道標のすぐ隣りには、地蔵墫立像と坐像の二体 仲良く並んでいます。

10:20 駒引(こまびき)交差点
10:21 駒引稲荷社 入口前に地蔵堂


ここを過ぎると、不破郡から大垣市に入っていきます。
つづく。。。
