2/17(土)の日記のつづき
関ヶ原宿~(5.2km)垂井宿~(5.9km)赤坂~(約5Km)美江寺宿手前まで歩きます。
08:35 関ヶ原宿と垂井宿の間の宿 野上地区へ入ってきました。
現在では中山道中唯一の松並木が野上地内に残っています。
松の幹に巻かれた害虫対策「こも巻き」冬の風物詩です。
町指定天然記念物になっています。
現在では中山道中唯一の松並木が野上地内に残っています。
松の幹に巻かれた害虫対策「こも巻き」冬の風物詩です。
町指定天然記念物になっています。

野上という部落が現在も残っています。08:37 旧中山道沿いには、山内一豊陣跡があります。
慶長5年(1600年)徳川家康に従い会津の上杉景勝討伐の軍に参加した一豊は、関ケ原の戦いに際し、居城の掛川城を明け渡しての出陣となりました。
岐阜・大垣の兵と戦い、野上に入ると、一豊らは一里塚より桃配山までの間の中山道左右に陣を置き、南宮山の敵に備えました。その後、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、家康の命令を受け、山内隊は有馬・蜂須賀の隊と共に前進して戦い、
一豊は関ケ原の戦いで大きな武功はなかったのですが、合戦前の城を明け渡しにより、家康の信頼を得ていた為に土佐の国主となっています。
慶長5年(1600年)徳川家康に従い会津の上杉景勝討伐の軍に参加した一豊は、関ケ原の戦いに際し、居城の掛川城を明け渡しての出陣となりました。
岐阜・大垣の兵と戦い、野上に入ると、一豊らは一里塚より桃配山までの間の中山道左右に陣を置き、南宮山の敵に備えました。その後、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、家康の命令を受け、山内隊は有馬・蜂須賀の隊と共に前進して戦い、
一豊は関ケ原の戦いで大きな武功はなかったのですが、合戦前の城を明け渡しにより、家康の信頼を得ていた為に土佐の国主となっています。
野上地区の住宅も立派な家が多いです。


野上長者邸跡(現在岩田邸)何処か不明
美濃の国野上の宿の遊女花子は、東国へ下る途中の吉田の少将と契りを交わして以来、後日を約して去った少将を想い、
形見に交換して扇ばかり眺め入って勤めに出ません。
宿の長は怒って花子を追い出してしまいます。
東国からの帰り、少将は再び宿を訪れますが、
宿の長は怒って花子を追い出してしまいます。
東国からの帰り、少将は再び宿を訪れますが、
花子がいないのでやむなく帰り、賀茂の社へ参詣します。
するとそこへ花子が現れます。
彼女は少将への恋慕がつのって物狂となり、
彼女は少将への恋慕がつのって物狂となり、
今は班女(はんじょ)と呼ばれています。
神に祈願を捧げる班女に、少将の供の者が狂いの芸を見せよと言います。班女は悲しみながらも形見の扇を手に、玄宗と楊貴妃の故事を語り、捨てられた班女と同じ身の寂しさを思い、
少将のつれなさを恨んで狂おしく舞います。
やがて少将はその扇に気がつき、自分の扇と比べて班女が自分の探していた花子であると知って再び逢えたことを喜びあいます
(下賀茂、糺の森で花子は吉田少将と再会する)
班女像(旅姿)関ヶ原歴史資料館より
近くにある真念寺の境内には「班女」の観音堂があります。
神に祈願を捧げる班女に、少将の供の者が狂いの芸を見せよと言います。班女は悲しみながらも形見の扇を手に、玄宗と楊貴妃の故事を語り、捨てられた班女と同じ身の寂しさを思い、
少将のつれなさを恨んで狂おしく舞います。
やがて少将はその扇に気がつき、自分の扇と比べて班女が自分の探していた花子であると知って再び逢えたことを喜びあいます
(下賀茂、糺の森で花子は吉田少将と再会する)
班女像(旅姿)関ヶ原歴史資料館より
近くにある真念寺の境内には「班女」の観音堂があります。
8:44 野上「七つ井戸」

ここ野上は、中山道の垂井宿・関ケ原宿の間の宿。
水不足に悩むこの地の人々は、江戸時代の頃から僅かな地下水を取得して多目的に利用していました。街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、旅人にとっては、喉を潤し、疲れを癒す格好の場所だった事でしょう。
近年は、水道事業が整備されて放置されていましたが、先人が残した遺産の再発見の見地から、休息所を兼ねて修復・再現しました。
この井戸はつるべ式で実際に水を汲むことができますが、その際は安全に十分ご注意ください。
また、飲料水ではないので、飲まないでください(案内板より)
「飲んで下さい」とあれば、野上の価値もあがるのに。。。
野上の七つ井戸から・北ヘ150m 徒歩3分の所に
「しゃもじ塚」平安中期の豪族平忠常の墓
長元四年(1031)平忠常の乱で捕えられ京に護送される際、病に倒れ、里人が出した食物をしゃもじごと口に入れ、息絶えてしまったそうです。
・南へ300m徒歩5分の所 真念寺墓地内、壬申の乱(672年)の際本営とした、
大海人皇子行宮跡 (推定地)
天武天皇元年(672)壬申の乱において、吉野から脱出した大海人皇子は、関ヶ原で不破道を塞いだ美濃・尾張の兵と合流、高燥で眺望が良いこの地の小高い小平地に、行宮(長者屋敷)を興して本営としたと云われています。
又、乱後に行基が行宮の廃材を利用して南方六坊を建てたと伝えられている。
↑この先になるが、立ち寄らない。
天武天皇元年(672)壬申の乱において、吉野から脱出した大海人皇子は、関ヶ原で不破道を塞いだ美濃・尾張の兵と合流、高燥で眺望が良いこの地の小高い小平地に、行宮(長者屋敷)を興して本営としたと云われています。
又、乱後に行基が行宮の廃材を利用して南方六坊を建てたと伝えられている。
↑この先になるが、立ち寄らない。
08:46 平木川橋


08:48 式内 縣社 伊富岐神社一之鳥居
古代伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏の祖神をまつってあり、この神社付近には石器時代の遺跡や山頂古墳も多く、古代の豪族が住んでいたことも明らかです。この神社は 古来より美濃の二の宮として崇敬さ れており、岐阜県指定の天然記念物の杉の古木があります。写真はネットより
古代伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏の祖神をまつってあり、この神社付近には石器時代の遺跡や山頂古墳も多く、古代の豪族が住んでいたことも明らかです。この神社は 古来より美濃の二の宮として崇敬さ れており、岐阜県指定の天然記念物の杉の古木があります。写真はネットより
幹周/6. 3m、
樹高/30m、
根周り/9. 6m。
約1Km程奥に伊富岐神社の社殿(式内社)がありますが、
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで焼失、寛永13年(1636)伊吹山を背後にした形で社殿が再建されています。
国道21号線を渡り、不破ノ関病院の前の道を進みます。垂井宿に入っていきます。

09:01 「日守西」信号
右手の道を直進
09:04 「垂井一里塚」
南塚が残っている。
日本橋から112番目の一里塚。
中山道で国の史跡に指定された一里塚はここと、板橋志村の一里塚だけです。

関ケ原の合戦の際、浅野幸長(よしなが)は この一里塚辺りに布陣し、南宮山の毛利秀元等の西軍に備えました。幸長は五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で甲斐國府中十六万石の領主であった。
関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため、東軍に属し先鋒を勤め、この功により合戦後、紀伊國和歌山三十七万六千石が与えられました。
隣接して「日守の茶所」
江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ケ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に秋風庵を建て、明治になってそれをここに移し、中山道を通る人々の休み処として昭和の初めまで盛んに利用されました。又、大垣新四国八十八ケ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物です。
敷地内に地蔵堂がある。

ここまで、9,616歩 5.7Km 1時間20分歩きました。

09:07 南宮大社道標
「南宮江近道八町」と刻まれている
09:09 垂井町日守の歩道橋を渡り、
国道21号線を横断。
JR東海道本線出屋敷踏切りも渡ります。

09:17 松島稲荷神社
天保十年(1839)建立の松島村の鎮守です。
松島村は松並木沿いの小さな村(島)であったところから松島となりました。


09:19 前川橋


09:20 八尺地蔵尊道道標、「従是一丁」と刻まれています。
火防の神愛宕神社が祀られています、宿内に入り込む悪霊を見張っています。
火防の神愛宕神社が祀られています、宿内に入り込む悪霊を見張っています。
ある目の見えぬ母が、夢告げに従って八尺掘ると、三体の地蔵が出土しました。
そこに八尺四方の堂を建て地蔵を祀ると、目が見えるようになったといいます。
そこに八尺四方の堂を建て地蔵を祀ると、目が見えるようになったといいます。

★、そして,ここが西見付けです。


雨で隠れてしまいましたが、垂井町の花はツバキと書いてあります。背後には山茶花だけど。


木曾海道六十九次之内 垂井

広重の絵は、西見附付近で、西の京方向から宿場にやってくる大名行列を描いています。
宿内から京方面を見て、雨が降る西見付の風景です。
両側の石垣の上に土塁を築いた見付や手前に茶店の様子。
松並木の中から現れた参勤の大名行列を出迎える、宿役人が描かれています。
現在は、見附(松並木が終わったところ両脇に見られる石垣)も
松並木も残っておらず、往時の面影もなく、味気ないです。

いよいよ垂井宿メイン通りに入っていきます。
つづく。。。
