前回9/15(火)には、鳥居本宿本陣まで辿り着き鳥居本駅が近かったので、そこで完了しました。
そこまで思い出して下さい。

4-4 鳥居本宿「中山道六十九次を歩く」
2015年09月21日の日記
http://blogs.yahoo.co.jp/aozora8482/63564932.html

中山道歩きは、9/15(火)以来久々になります。
10/5(月)の日記
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05:55 スタート!
気温は15℃肌寒い朝。 
近江鉄道鳥居本駅まで43Km。
約1時間半の予定です。




イメージ 2途中、三上山を過ぎた8号線から見た不気味な雲。
低気圧が近づくと、ひつじ雲⇒うろこ雲に変化していくと数日後にお天気が崩れるとか。
 




07:15
イメージ 3近江鉄道イメージ 4 
鳥居本駅到着 






07:17 スタート!
鳥居本宿から磨針峠を越え一里一町5.1Km山間の番場宿~
~一里3.9Km清流に咲く梅花藻で有名な醒井宿~
~一里半6Km伊吹山麓の柏原宿まで歩きます。

近江鉄道鳥居本駅前に「ゆかり歴史看板」があり、前回ご紹介しましたが、この鳥居本は、平安時代から白河上皇と忠盛との緊密な関係を示す逸話として知られています。
『平家物語 巻第六』「祇園女御」にも語られていて多くの絵師が描く古典的画題にもなっていました。
平忠盛は、父親の代から白河院に仕え、荘園の取り立てや瀬戸内の海賊平定などによって、院から篤い信頼を得ていた人物です。
忠盛が祇園社(現八坂神社)の灯籠の灯に油を注いで歩く承仕法師(じょうじぼうし)の様子をうかがっている場面。
歌舞伎では「だんまり」に取り入れられる場面だそうです。

木曽街道六十九次之内 鳥居本 平忠盛・油坊主 歌川国芳 寛永5年
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07:21 鳥居本宿 本陣跡
イメージ 6彼岸花は枯れていましたが、
まだ芙蓉の花が咲いています。 

脇本陣・本綿屋(合羽所)は前回掲載したので省略。




07:22 旧旅篭 デイサービスセンター鈴の音
イメージ 7旧旅籠を改修し懐かしく落ち着くことの出来る環境をとつくられたそうです。
昼食はバイキング方式らしいですが、
珍しい試みのデイです。 




07:24 湖東焼「自然斎」旧宅
イメージ 8江戸時代「米屋」という屋号の旅籠でした。
ここに住む岩根治右衛門は藩主井伊直弼の絵の師匠である中島安泰に学び、 直弼から、自分に自然であるようにと「自然斎」の号を賜りました。
湖東焼きの絵付は、赤絵のほか、金彩を加えたもの、色絵と多彩であり、 中には青磁の肌に赤絵金彩を施した特異な作品もあります。
作風は精緻で、山水・人物・花鳥など幅広くこなしました
明治時代を迎える頃には、湖東焼の窯場も宿場もともに衰退し、明治5年、自然斎は高島郡西万木(にしゆるぎ)村に移住しましたが5年後に57歳で亡くなりました。

そのまま直進すると突き当りに有川家。
道は桝形になっている(敵の進行を阻むために道を鋭角に曲げている)
この辺りには、鳥居本地名由来なった多賀大社の鳥居があったそうです。
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イメージ 10赤玉新教丸 有川家 (有川市郎兵衛)
滋賀県指定文化財・国指定重要文化財
有川薬局の創業は万治元年(1658)
現在の建物は宝暦年間に建てらたもの。
ご先祖は磯野丹波守に仕え、鵜川氏を名乗っていましたが 有栖川宮家に出入りを許され有川姓になったとか。 

イメージ 11鳥居本宿名物、和漢健胃薬の赤玉神教丸
多賀神社の神教によって調製したことが始まりといわれ「神教丸」という名がつき、
現在でも販売されているようですが、
早朝で入れません。


イメージ 12鳥居本駅にパンフレットがありました。

「もろもろの病いの毒を消すとかや 
            この赤玉も 珊瑚朱の色」
 



イメージ 13立派な門構えです。
明治天皇鳥居本御小休所の石柱(明治11年北陸東海道の行幸時)
皇女和宮様が本陣での昼食時には赤玉神教丸が献上されたそうです。
お腹を壊して飲んだかしら?


イメージ 14有川製薬株式会社
彦根市鳥居本町425
TEL:0749-22-2201
http://akadama-1.com/




有川家左手方向にある上品寺(じょうぼんじ)の梵鐘を見るのを又忘れていました。
歌舞伎で演じられる法界坊和尚が江戸市中吉原の遊女達の浄財を受け、
江戸で梵鐘を造り、自ら大八車でここまで運んできたという。
梵鐘には寄進者の名前が刻まれているという。

有川家の向かいに茅葺き屋根の家 棒屋跡
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イメージ 16中山道標石「鳥居本町」 




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07:33 「彦根八景 旅しぐれ中山道松並木」の看板 
高宮宿の彦根市モニュメントがある場所には松並木がありましたが、
こちらの鳥居本宿道沿いの松並木はこの数年でほとんど枯れてなくなっていました。
高宮宿の方は、麻の原料を背負った婦人、旅人、近江商人の像でしたが、
鳥居本宿の彦根市モニュメントは、虚無僧と行商人と旅人でした。
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イメージ 19矢倉川(矢倉橋)を渡り右へ曲がると下矢倉旧道 
石標「下矢倉町」
「右中山道 左北国米原・きの本道」
右中山道の細い道を進みます。 
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07:39 別れ道 塀に沿って左手の細い道へ進むと 
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07:42 竹藪から杉林の山道になります
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07:48 視界が開けて
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車道に出て
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道を渡り左手の階段を更に上がります
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07:51 また車道に出て、今度は車道右手へ進み
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07:53 磨針峠 望湖堂跡  
イメージ 28摺針峠には「望湖堂」という本陣構えの大きな茶屋がありました。
旅人はここで眼下の琵琶湖の景色を楽しみながら「するはり餅」を食べて休憩しました。
望湖堂は平成3年の火事で焼失しました。
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参勤や朝鮮通信使の資料等も保管していましたが残念なことです。
右の家構は、焼失した「望湖堂」跡に建てられたものです。 

逆光なのでハッキリ写りませんが、湖東平野とその先に琵琶湖が雄大な広がりを見せますが、 琵琶湖はわずかに見えるだけです。
当時は前方まで入り江が見えたので、琵琶湖は小さくなったのです。
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安藤広重の「63木曽海道六拾九次之内 鳥居本」
広重は、鳥居本として望湖堂と琵琶湖を描いています。
この摺針峠からの風景は、中山道随一の名勝といわれました。
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摺針峠(すりはりとうげ)には、弘法大師にちなむ逸話が残されています。
その昔、まだ修行中の弘法大師がこの峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会います。 聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて針にするといいます。 そのとき、ハッと悟った大師は、自分の修行の未熟さを恥じ、修行に励んだと言います。
その後、再びこの峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え、杉の若木を植え、この一首を詠まれたとか。

「道はなほ学ぶることの難(かた)からむ斧を針とせし人もこそあれ」 イメージ 32

その後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになりました。
 
「明治天皇磨針峠御小休所」の石碑
江戸時代後期には「皇女和宮」が休憩されました。
イメージ 33神明宮にお参りします。 



ここまで、3262歩、1.9Km、32分 標高154m
短時間なのに山登りした感じ。えっ?たったこれしか歩いてないの?
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07:58 石段を下り右手へ進むと、旧磨針村です。
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08:01 平野山 称名寺
ご本尊は阿弥陀如来★ 


08:03 磨針一里塚跡標石 江戸日本橋より118里 
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08:08 「摺針峠 彦根 中山道 鳥居本」道標
坂道 左へ進む
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名神高速道路の米原トンネルが右下に見える。
トンネルの上が小摺針峠の頂上。
ここが彦根市と米原市の境になる。 

08:13 湧水「泰平水」と小祠が祀られ、旅人の安全を見守り、喉を潤してきた。
今は、飲めるのかどうか不明。。。
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朝は、ちょっと寒かったけど、登りが続き陽が昇ると暑くなり、夫は余計に着込んできた服を脱ぐ。 私も汗だく  休憩が必要。

イメージ 42道路脇には、仙人草イメージ 43
野あざみが咲いていた。
 




イメージ 44小摺針峠は、イメージ 45
すぐに下り坂になり、
名神高速道路に沿って進む。
 



08:32 道の先には伊吹山が迫り、やがて番場宿の入り口に辿り着く。
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つづく。。。