11/29(木)のつづき
07:47 焼餅坂を上って行くと、交差点に広場がある。
武相国境之木の標識が立っています。
07:47 焼餅坂を上って行くと、交差点に広場がある。

武相国境之木の標識が立っています。ここが戸塚区と保土ヶ谷区の境目であり、 武蔵国と相模国の境目なのです。



07:50 境木地蔵尊をお参りする。


境木地蔵由来
この境木は武蔵相模の国境で江戸時代にはそのしるしが建てられていて、
この境木は武蔵相模の国境で江戸時代にはそのしるしが建てられていて、
境木の地名はそれからおきたといわれています。
また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり名産の牡丹餅を食べながら
また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり名産の牡丹餅を食べながら
旅の疲れを休めることができて大変賑ったとも伝えられています。
境木の名を有名にしたものは地蔵で江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄付された燈籠が残っています。
この地蔵には次のような珍しい伝承があります。
即ちいつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち、 「俺は江戸の方へ行きたい 運んでくれたらこの海を守ろう」
と告げたので漁師達が江戸へ運ぶ途中、此の境木で動かなくなった為、 村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、 それから村が繁昌したということです。
境木の名を有名にしたものは地蔵で江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄付された燈籠が残っています。
この地蔵には次のような珍しい伝承があります。 即ちいつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち、 「俺は江戸の方へ行きたい 運んでくれたらこの海を守ろう」
と告げたので漁師達が江戸へ運ぶ途中、此の境木で動かなくなった為、 村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、 それから村が繁昌したということです。
境内




地蔵堂の鐘楼は、明治になって野毛山の時の鐘に使用され、
横浜市民に大正の関東大震災まで親しまれましたが、今はありません。
07:56 この辺りには茶屋が立ち並び、黒塀に囲まれた若林家は、
かっては立場として、名物の牡丹餅を売って賑わいを見せた峠の茶屋でした。
立派な門構えで、ご子孫の方が住んでおられるようです。



横浜市民に大正の関東大震災まで親しまれましたが、今はありません。
07:56 この辺りには茶屋が立ち並び、黒塀に囲まれた若林家は、
かっては立場として、名物の牡丹餅を売って賑わいを見せた峠の茶屋でした。
立派な門構えで、ご子孫の方が住んでおられるようです。



この境木の茶店辺りを、広重が描いています。現在の様子
東海道五十三次狂歌入り 人足立場
境木立場の情景です。
立場とは宿場の出入り口にあって、旅人・駕籠かき・人足などが一休みする簡易茶屋。
名物の餅やうどんを出す店で全く現在と様子は同じ。 図では自動車の代わりに、今到着した駕籠があり、 その乗客に名物を食べて行ってちょうだいなと呼込み早速薦めに来た。 この茶屋は街道の人目を集めようとして赤提灯を吊るし、 飾り物を立ててある。行き交う旅人の職業も雑多である。
境木立場の情景です。 立場とは宿場の出入り口にあって、旅人・駕籠かき・人足などが一休みする簡易茶屋。
名物の餅やうどんを出す店で全く現在と様子は同じ。 図では自動車の代わりに、今到着した駕籠があり、 その乗客に名物を食べて行ってちょうだいなと呼込み早速薦めに来た。 この茶屋は街道の人目を集めようとして赤提灯を吊るし、 飾り物を立ててある。行き交う旅人の職業も雑多である。

広重 五十三次 境木立場
東海名所改正道中記 六 境木の立場 程ケ谷
戸塚迄二リ九丁 広重(三代)
境木茶屋の情景を描いたもの。
電信線や人力車に、明治初頭の時代状況が
境木茶屋の情景を描いたもの。 電信線や人力車に、明治初頭の時代状況が
巧みに表現されている。

08:03 境木中学校
ここでまた道迷い。学校で立哨のおじさんに道を聞きますが、 東海道を歩く人は多いらしいのですが、必ず京都方面への道を教えて下さいます。
それでは戻ってしまうので、江戸方面へ猿く人は、やはり少ないようです。
ここでまた道迷い。学校で立哨のおじさんに道を聞きますが、 東海道を歩く人は多いらしいのですが、必ず京都方面への道を教えて下さいます。
それでは戻ってしまうので、江戸方面へ猿く人は、やはり少ないようです。
08:04
分岐点 
バスセンター前境木中学校前バス停
細い通りを左に曲がります。
08:06 いよいよ「権太坂」の始まりです。
細い通りを左に曲がります。
08:06 いよいよ「権太坂」の始まりです。
坂の向こうに、下界の街並みが見えますが、相当長い坂なのが分かります。
西からは下り坂で楽ですが、江戸側から上がると、どんなに大変でしょう?
権太坂の途中街道から50m程の場所に「「投込塚」というのがあるそうです。
権太坂の難所で命を落とした旅の人馬を葬った場所だといいます。
東海道の旅では、各所で行き倒れた旅人のお墓や慰霊碑に出会いましたが、
「投込み」とは、随分と乱暴な名称です。
昔は遺体を故郷へ送り返す手立てはなく、旅人は亡くなったその場で葬るしかなかったのです。
命がけの旅だったことが良く分かります。
戦後の宅地造成時に大量の人骨や牛馬の骨が出土しました。
出土した骨は、近くの平戸の東福寺に埋葬されているそうです。
塚の場所までは立ち寄りません。合掌。
権太坂は境木から一番坂、二番坂に分かれていて、下は保土ヶ谷の元町まで1.5km続きます。
08:16 二番坂を下る途中で、
戦後の宅地造成時に大量の人骨や牛馬の骨が出土しました。
出土した骨は、近くの平戸の東福寺に埋葬されているそうです。
塚の場所までは立ち寄りません。合掌。
権太坂は境木から一番坂、二番坂に分かれていて、下は保土ヶ谷の元町まで1.5km続きます。

08:16 二番坂を下る途中で、
下界が見渡せる場所に出ました。
かすんでいますが、丹沢連山の左に富士山
かすんでいますが、丹沢連山の左に富士山

予想していなかっただけに感動!元気を貰えました♪
昔の人も、下からキツイ坂を上がってきて感動したに違いありません。
北斎が描いている東海道保土ヶ谷は、昔は松並木も多かったこの権太坂が描かれています。
葛飾北斎 富嶽三十六景 東海道程ケ谷
保土ヶ谷宿の東海道から富士を眺めながら旅するいかにも楽しげな
昔の人も、下からキツイ坂を上がってきて感動したに違いありません。
北斎が描いている東海道保土ヶ谷は、昔は松並木も多かったこの権太坂が描かれています。
葛飾北斎 富嶽三十六景 東海道程ケ谷
保土ヶ谷宿の東海道から富士を眺めながら旅するいかにも楽しげな様子が伝わってきます。
松並木を透かして見える富士、そこを行き交う人々。
長い道中、草履の紐が解けたのでしょうか。
松並木を透かして見える富士、そこを行き交う人々。
長い道中、草履の紐が解けたのでしょうか。
街道の日常が垣間見られます。
江戸の人の生き生きとした様子が、北斎の絶妙な筆使いによって
江戸の人の生き生きとした様子が、北斎の絶妙な筆使いによって
描かれています。
この作品は、フランス印象派の画家モネの名作「ポプラ並木」に
この作品は、フランス印象派の画家モネの名作「ポプラ並木」に
影響を与えたことでも有名です。
一震斎芳形 東海道程ケ谷之風景
武家の大名行列が保土ヶ谷宿付近の東海道を進む情景を描き、 遠方には富士山がのぞまれる。
一震斎芳形 東海道程ケ谷之風景
武家の大名行列が保土ヶ谷宿付近の東海道を進む情景を描き、 遠方には富士山がのぞまれる。 暁斎周麿 東海道名所之内 権太坂
背景に権太坂の急なのぼりを陰影で表現し、 前面にはそれと対称的に明るくやや滑稽味を帯びた
茶屋の情景が描かれている。
08:21 権太坂小学校辺りから一番坂。。。
08:24 光陵高校の通学の生徒達に会いましたが、坂道を下るのは楽だけど、
下から上がって通学してくる生徒も多いようで、毎日良い運動になりそうです。



08:27 権太坂陸橋を渡ります。
保土ヶ谷バイパス横浜横須賀道路が下を走っています。

坂の途中に「権太坂改修碑」
保土ヶ谷バイパス横浜横須賀道路が下を走っています。 
坂の途中に「権太坂改修碑」

坂の名を問われた老人が自分の名前と勘違いて「ごんた」と答えて名が付いたとか。 由来は諸説あるそうですが、私はこのとぼけたお話しが面白い☆
08:31 1.5Kmあった権太坂の終了です。
ゆっくりと景色を眺めながらの下り坂だったので楽しめましたが、
上りでなくて良かったです。

08:31 お魚屋さん。
開店前で、ケースは空っぽ。
08:32 元町橋を渡る。
08:34 稲荷神社

馬頭観音 08:35 横浜保土ヶ谷三局

08:39 樹源寺
明治の新史劇の作者 山崎紫紅の墓がある。
史劇「頼朝」「上杉謙信」等で知られているそうだが、知らない。
08:46 歩道橋からハトを撮る
歩道橋を下りると、遊歩道になっている今井川沿いを歩く。
綺麗な水!鯉やウズラ?。




仙人橋(今井川)を渡ると、高台に外川神社があるが立ち寄らない。 江戸時代末期に外川仙人大権現として創建。
大きな神社のようだ。
http://www.shinmeisya.or.jp/yuisyo/togawajinjya.html

08:50 保土ヶ谷の一里塚・上方見附跡
保土ヶ谷宿の出入り口です。 日本橋より八里目。
榎を植え、松並木などもあり整備されています。 保土ケ谷宿は神奈川宿とともに東海道の宿場としても最初に指定されています。
東海道の保土ケ谷宿は帷子(かたびら)、神戸(ごうど)、岩間、保土ヶ谷の4町からなり、 東海道制定当時の保土ヶ谷宿の場所はこの4町の場所とは違いました。
旧東海道が国道1号線とぶつかる保土ヶ谷から権太坂の入口付近にある元町橋までの元町が、はじめの保土ヶ谷宿です。
「茶屋本陣九右衛門跡」

正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋で「茶屋本陣」と呼ばれていた。
文政7年(1824)保土ヶ谷宿内には茶屋が33軒ありました。
金沢七左衛門が茶屋総代でした。
08:53 茶屋町橋
東海道程ヶ谷芳艶
武家の行列が保土ヶ谷宿を通行する状況を描いています。 篝火や「保土ヶ谷宿」と記された提灯が各家の軒先に多数配置されており、
手前の門(本陣か)から行列が薄明の内から出発する様子です。


09:00 旅籠屋(本金子屋)跡
ここまで、15637歩、9.3Km、2時間18分
東京から歩いてきた夫婦に会う。
ご主人がお喋り好きで、張り切っている。
京都まで遠い。頑張って欲しい。


09:06 保土ヶ谷脇本陣 水屋与左衛門跡
現在、消防署になっている



09:08 脇本陣 藤屋四郎兵衛跡
現在は、マンションになっています。

脇本陣 大金子屋跡(八郎右衛門)
見当たらず
09:10 保土ヶ谷1丁目交差点 本陣跡前
茶屋本陣跡、脇本陣(水屋)跡、本陣跡と保土ヶ谷宿の史跡が400mの間につづき、 本陣跡からは1号線を離れてこの交差点から旧街道を進む。
保土ヶ谷宿 苅部(軽部家)本陣跡
名主(町村の最高責任者で法律の施行、納税、戸籍等をつかさどる)を置く定めがあった。 初代苅部清兵衛がこの諸役を命ぜられ、代々清兵衛を名のった。 保土ヶ谷宿では問屋場、本陣、そして保土ヶ谷町の名主まで苅部家(のちに軽部)がすべて行なっていました。
09:13 踏切を渡り、金沢横丁道標

金沢浦賀への追分にあたり、金沢横丁と呼ばれた
本来は「かねさわ」だったそうです。

09:15 高札場跡 一般住宅前
一般の法令等に関するものだけでなく、隣の宿場までの荷物のの運搬料金や旅篭屋の木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲出されてました。 09:17 問屋場跡 工事中の建物前
人馬の継ぎ立て、休泊のせわ、旅荷一切などを取扱う所



帷子通りは保土ヶ谷宿の中心です。 
09:18 保土ヶ谷の駅前商店街 次回の利用予定駐車場
保土ヶ谷第2P(ふとん池田屋近く)
PC24H保土ヶ谷第2パーキング13台
(月-土)24時間最大 ¥1,400
神奈川県横浜市保土ヶ谷区帷子町2-79

商店街を抜けます

09:18 保土ヶ谷の駅前商店街 次回の利用予定駐車場
保土ヶ谷第2P(ふとん池田屋近く)

PC24H保土ヶ谷第2パーキング13台
(月-土)24時間最大 ¥1,400
神奈川県横浜市保土ヶ谷区帷子町2-79

商店街を抜けます
09:21 岩井橋を渡ります
09:23 JR保土ヶ谷駅到着

09:36 JR保土ヶ谷駅発 久里浜行き戸塚へ(横須賀線2番)
09:46 JR戸塚駅着
09:46 JR戸塚駅着
ここまで、17228歩、10.3Km、2時間18分
その後は、寄り道日記に続きます。
つづく。。。
