9/19(金)のつづき。。。

09:32 向田橋を渡る 橋の模様も桜えび♪
見上げると蒲原の山々。ここが広重の描いた辺りだそうです。
もし、雪でも積もっていたら素敵だったかもしれませんが、
実は、当時、この辺りでは雪が積もる程の豪雪はなかったのだそうです。(天保3年(1832年)以前に豪雪の記録がない)
もし、雪でも積もっていたら素敵だったかもしれませんが、
実は、当時、この辺りでは雪が積もる程の豪雪はなかったのだそうです。(天保3年(1832年)以前に豪雪の記録がない)
何故、雪を降らせたのか不思議です。。。
余程寒かったのかしら?それとも心が寒かった?
余程寒かったのかしら?それとも心が寒かった?
歌川広重 東海道五拾三次 蒲原 夜之雪
取り立てて何もない淋しい蒲原の宿場の風景を、広重は傑作に仕上げています。
人影もまばらな夜の街道、音もなく深々と降る雪の情景は、絵師の心象風景でしょうか。
ふっくらとした新雪の柔らかさも感じるねずみ色の濃淡で表した雪の量感。
人間と自然との調和した描写が素敵です。
取り立てて何もない淋しい蒲原の宿場の風景を、広重は傑作に仕上げています。人影もまばらな夜の街道、音もなく深々と降る雪の情景は、絵師の心象風景でしょうか。
ふっくらとした新雪の柔らかさも感じるねずみ色の濃淡で表した雪の量感。
人間と自然との調和した描写が素敵です。
雪道の坂を下る人。
番傘を半開きにして杖を突き、足には雪下駄で、慎重な足取りです。
深々と降る雪は、色を用いず和紙の地の色を生かしたもの。
効果的で無駄のない表現方法です。
背を丸めて坂を上る人々。先頭の菅笠に合羽の男は、小田原提灯で足元を照らしています。
山あいのぼかし。闇の中に浮かび上がる雪の白さをよく表現しています。
深々と降る雪は、色を用いず和紙の地の色を生かしたもの。
効果的で無駄のない表現方法です。
背を丸めて坂を上る人々。先頭の菅笠に合羽の男は、小田原提灯で足元を照らしています。
山あいのぼかし。闇の中に浮かび上がる雪の白さをよく表現しています。
東海道五十三次 狂歌入り 葡萄雲
「夜之雪」を昼間にして雪を消し、入道雲の下に駕籠屋を登場させた広重。
題名が「葡萄雲」とあるが、入道雲のことだろうか?
もくもくとした雲が葡萄に見えなくもない。
広重は、こうして冬と夏の蒲原を描いてみせたのだ。
「夜之雪」を昼間にして雪を消し、入道雲の下に駕籠屋を登場させた広重。題名が「葡萄雲」とあるが、入道雲のことだろうか?
もくもくとした雲が葡萄に見えなくもない。
広重は、こうして冬と夏の蒲原を描いてみせたのだ。
断然、冬景色の方が良い☆
09:40 蒲原宿西木戸跡
蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄十二年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。
蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄十二年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。道標
富士川町宿境まで十七町→【蒲原町 蒲原宿西木戸】→由比宿 宿境まで二十九町
茄子屋の辻跡碑
この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、
「茄子屋の辻」で乱闘がおこりました。
承応2年(1653)高松藩の槍の名人大久保甚太夫等が江戸へ行く途中
薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒しました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。
当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。
甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。
承応2年(1653)高松藩の槍の名人大久保甚太夫等が江戸へ行く途中
薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒しました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。
当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。
甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。
蒲原宿の西木戸はこの先の若宮神社の参道入口前になる。


09:44 長栄寺石標
09:46 美しい格子戸の家(増田家)
格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つです。細い角木を縦横に間をすかして組み、窓または出入り口に取り付けますが、組子の組み方にも幾種類かあり、また、組子だけで吹通しのものや、一面に板を張るものなど、気候風土に合わせた工夫がなされています。かつては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日磨き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景でした。
格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つです。細い角木を縦横に間をすかして組み、窓または出入り口に取り付けますが、組子の組み方にも幾種類かあり、また、組子だけで吹通しのものや、一面に板を張るものなど、気候風土に合わせた工夫がなされています。かつては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日磨き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景でした。09:48 蔀戸のある家(志田家)
安政元年(1854)の大地震の翌年に再建され、東側二階建て部分が当時の建物です。蔀戸は日光や風雨などをさえぎる戸ですが、多くは上下二枚に分かれていて
上半分を長押から吊り、下半分は懸け金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは取り外せます。
昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締まりの役を果たしました。
今では当町でも数軒しか残っていない貴重なものです。
安政元年(1854)の大地震の翌年に再建され、東側二階建て部分が当時の建物です。蔀戸は日光や風雨などをさえぎる戸ですが、多くは上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸け金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは取り外せます。
昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締まりの役を果たしました。
今では当町でも数軒しか残っていない貴重なものです。
09:50 大正時代の洋館 「旧五十嵐歯科医院」

現在外装工事中 外観はこんな感じ(借り物写真) ⇒
旧五十嵐歯科医院は、当町にいくつかある大正時代の洋館の中で代表的なものです。大正の初め、帝国ホテルに代表される西洋風の建築が移入され、洋館造りが流行しました。しかし、内部はほとんど和室です。

表から向かって左手はプライベートで使っていた古い部分。
右手は、後に増築した部分です。

玄関と1階の窓は磨りガラスです。
右手は、後に増築した部分です。

玄関と1階の窓は磨りガラスです。
家の中に電話ボックス。電話番号は23番☆


古い蓄音機も置いてありました。
金庫と神棚があります。
お金ではなく病院で使う金歯の金を保管していたそうです。乾燥せず、良いそうです。8月に見学した新居宿の旧芸者置屋小松楼の金庫と同じく、
戦時下の金属拠出の時、ここの金庫も、重すぎて持っていけなかったようです。
主人の部屋 欄間は、近江八景の図柄です。



琵琶湖の竹生島や弁才天が住むという縁起のよい場所にしたかったようです(笑)
2階に上がります。
階段を上がるとすぐに隠し部屋があります。
離れと呼ばれている部屋で、渡り板を広げて部屋に出入りします。
子供部屋として使っていたそうで、
階段を上がるとすぐに隠し部屋があります。離れと呼ばれている部屋で、渡り板を広げて部屋に出入りします。
子供部屋として使っていたそうで、
勉強が終わるまで部屋から出られないようにしたそうです(笑)ほんと?
古谿荘の元宮内大臣田中光顕伯爵も患者の一人でした。
特別待合室が用意されていました。
特別待合室が用意されていました。






一般客の患者待合室です。


最近では、2階のスペースでミニコンサートなども開催するそうです。名医として知られ、泊りがけで来る患者も多く、
隣りの敷地に宿泊施設もあったそうです。
隣りの敷地に宿泊施設もあったそうです。
窓ガラスは手作りガラスで。現在は製造されていないものです。窓の外側には木製の手すり。昔は鉄製のものでした。
それも、戦時下に金属拠出されたそうです。
診察室も2階にあります。 診察室のとなりは技工室です。



当時の歯科治療に関するものは、すべて保管されているそうです。




家の奥の土間には、木製の冷蔵庫と3ッ口竈がありました。
イベントなどあると、大きなお釜でご飯を炊けるそうです。
イベントなどあると、大きなお釜でご飯を炊けるそうです。

土間の奥は内風呂五右衛門風呂です。
外の焚口。改築前は外風呂だったそうです。
水道がなかった時代に井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残っています。 中庭には海鼠壁の土蔵もありました。






旧五十嵐歯科医院は廃業後、旧蒲原町によって買い取られ、
現在の所有は静岡市です。
市の委託により「旧五十嵐邸を考える会」により管理・運営されているそうです。

市の委託により「旧五十嵐邸を考える会」により管理・運営されているそうです。
ご親切にも開館10分前から入れて頂き、説明が丁寧で50分も見学してしまいました^^;入館料は無料なので、気持ち、販売されている珍しい「いわし削り」を購入ました。
そのまま食べても美味しいです♪
そのまま食べても美味しいです♪
手作りの品も販売していました☆



10:36 柵区会館前 高札場跡
高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のことで、
高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のことで、辻札ともいわれました。
宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていました。
正徳元年(1711)に出された五高札が有名で、
①伝馬に関する定
②忠孝を奨励する定
③毒薬や贋金銀売買禁止の定
④切支丹宗門禁制の定
⑤火付(放火)重罪の定 が墨書されて掲げられていました。
また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられました。
宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていました。
正徳元年(1711)に出された五高札が有名で、
①伝馬に関する定
②忠孝を奨励する定
③毒薬や贋金銀売買禁止の定
④切支丹宗門禁制の定
⑤火付(放火)重罪の定 が墨書されて掲げられていました。
また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられました。
10:36 御殿道跡 高札場の向かい
かつて、このあたりに「蒲原御殿」がありました。
はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来する度に拡張、整備され、規模も大きくなりました。御殿の正確な位置はわかりませんが、この辺り一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。
背後の山が「御殿山」で、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。
寛永十一年(1634)の家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました。
かつて、このあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来する度に拡張、整備され、規模も大きくなりました。御殿の正確な位置はわかりませんが、この辺り一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。
背後の山が「御殿山」で、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。
寛永十一年(1634)の家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました。
10:37 若宮神社
この山の向こう更に背後の山に、蒲原城跡があります。
永禄12年(1569)12月6日、武田信玄の攻撃で落城する。
戦国時代の蒲原宿は蒲原城の足元にあったといいます。
今では、全山がライトアップされ、桜の名所になっている。
http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/2102034/
この山の向こう更に背後の山に、蒲原城跡があります。永禄12年(1569)12月6日、武田信玄の攻撃で落城する。
戦国時代の蒲原宿は蒲原城の足元にあったといいます。
今では、全山がライトアップされ、桜の名所になっている。
http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/2102034/
10:38 手作りガラスと総欅の家(磯部家)

明治四十二年(1909)に建築され、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとです。二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。
日本における板ガラスの生産開始が明治四十年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。

明治四十二年(1909)に建築され、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとです。二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。日本における板ガラスの生産開始が明治四十年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。
10:42 平岡本陣跡
本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。
原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより100m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。
本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていました。
本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより100m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。
本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていました。
10:43 旅籠「和泉屋」(鈴木家)
江戸時代「和泉屋」という上旅籠でした。
天保年間(1830~44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。
弘化二年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2間の二軒に仕切られています。
江戸時代「和泉屋」という上旅籠でした。天保年間(1830~44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。
弘化二年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2間の二軒に仕切られています。
10:44 問屋場跡
問屋場は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交替の折の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置されていました。こに問屋職、年寄、帳付、迎番、馬指、人足方、下働、継飛脚、御触状、持夫の人々が、毎月十五日交替で詰めて宿の経営にあたっていました。
問屋場は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交替の折の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置されていました。こに問屋職、年寄、帳付、迎番、馬指、人足方、下働、継飛脚、御触状、持夫の人々が、毎月十五日交替で詰めて宿の経営にあたっていました。10:44 商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)
昭和まで続いた「僊菓堂」という屋号で和菓子を作る商家でした。玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中に入ると柱がなく広々とした「店の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。
土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん状の階段があって、二階に通じています。
昭和まで続いた「僊菓堂」という屋号で和菓子を作る商家でした。玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中に入ると柱がなく広々とした「店の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん状の階段があって、二階に通じています。


10:50 「馬頭観音」「供養石塔」
由来文:東漸寺住職 小西亮衛
かって馬が、貨客の運搬、農作業など、生活の重要な役割を担っていた時代、「馬頭観音」は馬の守り神として、人々の信仰を集めていました。
また、路傍に立てられたその石像や供養塔は往還(街道)の道しるべとしても親しまれていました。
由来文:東漸寺住職 小西亮衛 かって馬が、貨客の運搬、農作業など、生活の重要な役割を担っていた時代、「馬頭観音」は馬の守り神として、人々の信仰を集めていました。
また、路傍に立てられたその石像や供養塔は往還(街道)の道しるべとしても親しまれていました。
江戸時代、この辺りから蒲原宿東木戸にかけての間は伝馬や宿役に使われた馬を飼う家が並んでいました。
この付近にも昭和の初め頃まで馬小屋があり、馬頭観音が祀られていたとつたえられていましたが、通りの北側の駐車場整備の際、半分土に埋もれた、この馬頭観音供養石塔が発見されました。
そこで、往時の人々の馬に寄せる温かい心を偲び、この場所に新たに安置して、お祀りすることにしたそうです。
この付近にも昭和の初め頃まで馬小屋があり、馬頭観音が祀られていたとつたえられていましたが、通りの北側の駐車場整備の際、半分土に埋もれた、この馬頭観音供養石塔が発見されました。
そこで、往時の人々の馬に寄せる温かい心を偲び、この場所に新たに安置して、お祀りすることにしたそうです。
10:50 木屋の土蔵 静岡市指定文化財「渡邊家土蔵(三階文庫)」
江戸時代末期、問屋職(宿駅の長)を代々務めた旧家です。
天保年間の「家屋敷配置図」によると、街道に面して間口二十間余(約36m)の敷地に、本宅や数棟の蔵や穀倉がある大きな家でした。
しかし、安政の大地震で大半の建物が倒壊し、今では土蔵のみが残っています。この土蔵は東海道でも唯一と言えるほどの珍しい「四方具」(しほうよろい)という当時の耐震工法で、内部には江戸時代の貴重な資料が保管されています。
江戸時代末期、問屋職(宿駅の長)を代々務めた旧家です。天保年間の「家屋敷配置図」によると、街道に面して間口二十間余(約36m)の敷地に、本宅や数棟の蔵や穀倉がある大きな家でした。
しかし、安政の大地震で大半の建物が倒壊し、今では土蔵のみが残っています。この土蔵は東海道でも唯一と言えるほどの珍しい「四方具」(しほうよろい)という当時の耐震工法で、内部には江戸時代の貴重な資料が保管されています。


10:53 日本軽金属発電設備への送水管。
10:55 東木戸・常夜燈
蒲原宿、東の入り口「東木戸」です。
木戸と木戸との間のことを「木戸内」といいます。
東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。
蒲原宿、東の入り口「東木戸」です。木戸と木戸との間のことを「木戸内」といいます。
東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。
また東木戸には「常夜燈」が残されています。
常夜燈は、今でいう街灯にあたるもので、

各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。
常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、
宿の入り口を照らしていました。
文政十三年(1831)ものと考えられています。
文政十三年(1831)ものと考えられています。
道標
富士川町 宿境まで七町 →【蒲原町 蒲原宿 東木戸】→由比宿 宿境まで三十九町
富士川町 宿境まで七町 →【蒲原町 蒲原宿 東木戸】→由比宿 宿境まで三十九町
10:56 諏訪神社
諏訪神社は保元年間、今から820年前吹上の丘六本松附近に建てられた御宮に始まる。当時五見坂附近は六本松の辺りまでなだらかな丘陵が続き、すぐ東側に富士川の奔流が流れ、富士川はしばしば氾濫しては、丘陵をけずりては附近の住家や農作物に被害を与えていた。
住民は水害から逃れようと相談の結果、長野県上諏訪大明神の御分霊を勧請して、六本松の池の畔に諏訪明神宮を創建し、水難守護神としてお祀りしたのである。安政の大地震による山崩れの為め押出され、現在の場所に転座した。
諏訪神社2段目の境内には樹齢500年の椎の木が御神木になっている。
諏訪神社は保元年間、今から820年前吹上の丘六本松附近に建てられた御宮に始まる。当時五見坂附近は六本松の辺りまでなだらかな丘陵が続き、すぐ東側に富士川の奔流が流れ、富士川はしばしば氾濫しては、丘陵をけずりては附近の住家や農作物に被害を与えていた。住民は水害から逃れようと相談の結果、長野県上諏訪大明神の御分霊を勧請して、六本松の池の畔に諏訪明神宮を創建し、水難守護神としてお祀りしたのである。安政の大地震による山崩れの為め押出され、現在の場所に転座した。
諏訪神社2段目の境内には樹齢500年の椎の木が御神木になっている。

この辺りから先が見えない程の急な上り坂になってきた。
左手には北条新三郎の碑 寄らない武田軍の攻撃に落城した蒲原城の城主。
永禄十二年(1569)十二月六日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い、落城した。
城主北條新三郎は、城から抜け出し常楽寺まで逃れましたが、寺に火を付け自害したと伝えられている。
その後供養のために、ここに碑をつくり、「常楽寺殿衝天良月大居士」の戒名が記されている。常楽寺は、「奥の院ここより五丁」という道標や常楽寺の奥の院と考えられる観音穴があることから、この近くに常楽寺があったことが推察されます。
蒲原の一里塚
塚はなく、小さな鳥居の前に石標がある。
日本橋から数えて、三十八番目
最初の一里塚は、元禄十二年(1699)の大津波で流失して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。
塚はなく、小さな鳥居の前に石標がある。日本橋から数えて、三十八番目
最初の一里塚は、元禄十二年(1699)の大津波で流失して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。

この辺りから先が見えない程の急な上り坂になってきた。
11:02 馬頭観音
蒲原宿に別れを告げながら、無事にここまできたことに感謝の祈りを捧げよう。
蒲原宿に別れを告げながら、無事にここまできたことに感謝の祈りを捧げよう。
古くはもっと富士川寄りの河岸段丘上の小池坂を下り、七難坂を上がったようだが、河岸段丘崩壊の危険があったため、この道に付け替えたようだ。
それでこの坂を地元では「新坂」と呼んでいる。

それでこの坂を地元では「新坂」と呼んでいる。
東名の上の渡る橋を通って、吉原方面の間の宿へとつづく。
11:10 新坂橋を渡る


11:11 冨士市に入りました。
東名を右眼下に見ながら、山に入っていくような道。
東名を右眼下に見ながら、山に入っていくような道。
急坂をまた峠越えだろうか。不安がよぎってきた。。。

つづく。。。
