9/4(木)のつづき
やがて1号線に合流する。
06:55 静鉄ストア―向こうに松並木が見えた。

06:55 静鉄ストア―向こうに松並木が見えた。

そこまでは間違いなかったのだが、その先で道迷い。
新しい道が出来て住宅がたくさん建っていた。
新しい道が出来て住宅がたくさん建っていた。
地図にはない。住宅街に入り込んでしまい、逆方向へ。
幾人もの人に道を尋ねるが、誰一人目的の諏訪神社を知らない。聞きすぎるのも良くなかった。
みんな違った方向を言う。地元の人ではないからだろう。
みんな違った方向を言う。地元の人ではないからだろう。
。。。後で気づいた。諏訪ではなく、須賀神社だったのだ(笑)
朝は、人通りが少ない。夫婦の考えも違ってくる。
ウロウロして疲れてきってしまい、私は不機嫌になって座り込む。
「休みたいだけ休んだらいい」と、待つ夫。。。
そんな時は、元の場所に戻るのが鉄則。山歩きと同じ。
夫の決断に、私も心では賛成しているのに、ついて歩くだけでは素直になれない。
いくら以心伝心でも、少しは説明が欲しい。無口すぎる(笑)
夫の決断に、私も心では賛成しているのに、ついて歩くだけでは素直になれない。
いくら以心伝心でも、少しは説明が欲しい。無口すぎる(笑)
最後に聞いた人が、知り合いに聞いて自転車で追いかけて来て下さった。
人の親切が有難い。40分ものロスをしてしまったけど、気を取り直せる。
人の親切が有難い。40分ものロスをしてしまったけど、気を取り直せる。
結局、松並木を直進してしまったのが間違いだった。
松並木を過ぎ、すぐに左折する道だった。
二人とも気づかなかったなんて、ぼぉーっとしていて反省した。
松並木を過ぎ、すぐに左折する道だった。
二人とも気づかなかったなんて、ぼぉーっとしていて反省した。
07:34 史跡 鐙ヶ渕(あぶみがふち)と観音堂
昔、葉梨川はここまで蛇行して、馬具の鐙(あぶみ)に似ていたことから鐙ヶ渕(あぶみがふち)と呼ばれた。
昔、葉梨川はここまで蛇行して、馬具の鐙(あぶみ)に似ていたことから鐙ヶ渕(あぶみがふち)と呼ばれた。07:37 須賀神社
樹齢500年のご神木から、パワーを頂けた。

樹齢500年のご神木から、パワーを頂けた。
静岡県指定天然記念物 須賀神社のクス
幹周囲 10.9m
枝張り東西 21.2m
枝張り南北 27.9m
根回り 15.2m
樹高 23.7m
幹周囲 10.9m
枝張り東西 21.2m
枝張り南北 27.9m
根回り 15.2m
樹高 23.7m

07:38 秋葉神社07:39 本行寺
07:40 鬼島建場跡碑
東海道中膝栗毛鬼島立場のくだりが刻まれている。
東海道中膝栗毛鬼島立場のくだりが刻まれている。今回の東海道の旅で、何度もモモhttp://img.mixi.net/img/emoji/44.gifの花レインリリーに出会う。
前日がモモhttp://img.mixi.net/img/emoji/44.gifの初七日で、レインリリーを見て、悲しくて写真が撮れなかった。モモhttp://img.mixi.net/img/emoji/44.gifも応援してくれている。

前日がモモhttp://img.mixi.net/img/emoji/44.gifの初七日で、レインリリーを見て、悲しくて写真が撮れなかった。モモhttp://img.mixi.net/img/emoji/44.gifも応援してくれている。
しんどいけど頑張らなくっちゃね。07:47 御成道


07:48 八幡橋(葉梨川)を渡る
ここの川は、綺麗だ。
ここの川は、綺麗だ。

07:51 地蔵祠
鬼島の一里塚跡
日本橋より四十九里目
鬼島の一里塚跡
日本橋より四十九里目
07:59 とうとう東京まで200Kmを切った。あと197Km。

08:04 岩村藩領傍示杭
「従是東巖村領 横内」(是従り東岩村領)
この杭は、江戸時代享保二十年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。
岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石の領地を持っていた。駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。
「従是東巖村領 横内」(是従り東岩村領)
この杭は、江戸時代享保二十年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。
岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石の領地を持っていた。駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。


08:13 松並木
左手に見える山の上が気になる。 クワガタのツノみたいだ。
左手に見える山の上が気になる。 クワガタのツノみたいだ。

08:16 東海道横内村に入って行く。
ここにも、屋号の木札が多い。 「はずれの家」って?
ここにも、屋号の木札が多い。 「はずれの家」って?
08:20 横内橋(朝比奈川)を渡る




08:22 町内会館前 休憩
「横内あげんだい」
「あげんだい」とは毎年8月16日に横内朝比奈川で催される精霊送りの行事だそうです。
横内歴史研究会が保存している貴重なお祭りのようですが、地域の力は歴史を守りますね。「あげんだいと」は写真のように、孟宗竹の上部を割って籠を作り、その中に燃えやすい松葉や麦わら竹の筒などをいれたもので、それにたいまつを投げ入れ早く火がつくのを競うものです。松明による玉入れのようなものだそうです。
松が少なく、冬に海岸端の松並木でその材料を採取してくるそうです。

「横内あげんだい」「あげんだい」とは毎年8月16日に横内朝比奈川で催される精霊送りの行事だそうです。
横内歴史研究会が保存している貴重なお祭りのようですが、地域の力は歴史を守りますね。「あげんだいと」は写真のように、孟宗竹の上部を割って籠を作り、その中に燃えやすい松葉や麦わら竹の筒などをいれたもので、それにたいまつを投げ入れ早く火がつくのを競うものです。松明による玉入れのようなものだそうです。
松が少なく、冬に海岸端の松並木でその材料を採取してくるそうです。

08:27 陣内小路
岩村藩横内陣屋入口
岩村藩横内陣屋入口
この辺りでも、屋号の木札が続きます。
08:27 小字名 持田(もちだ)
08:29 慈眼寺 旧横内公会堂跡

門前には変わった秋葉燈が個性的。
境内には美濃岩村藩横内陣屋三代目代官田中清太夫の墓といわれる代官地蔵尊が立ち、前庭には水琴窟があった。

門前には変わった秋葉燈が個性的。境内には美濃岩村藩横内陣屋三代目代官田中清太夫の墓といわれる代官地蔵尊が立ち、前庭には水琴窟があった。
08:30 小字名 油街途(あぶらがいと)
08:32 従是西厳村領傍示杭
江戸時代享保二十年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。
岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石の領地を持っていた。駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。
江戸時代享保二十年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石の領地を持っていた。駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。

08:33 岡部宿 石碑
ここまで、13758歩、1時間59分、8.2km
08:36 東海道岡部宿松並木08:39 しずてつジャストラインバスセンター
前日藤枝宿から駅まで戻るのに利用したバスは、この道を通り静岡駅まで路線が続いている。JR駅が遠い地区は、とても便利で助かる。帰りも利用することになるのか?
念の為、前日路線は把握しておいたが。
前日藤枝宿から駅まで戻るのに利用したバスは、この道を通り静岡駅まで路線が続いている。JR駅が遠い地区は、とても便利で助かる。帰りも利用することになるのか?
念の為、前日路線は把握しておいたが。
08:47 東海道岡部宿五智如来公園 トイレ休憩
岡部町名店会加盟の商店の中の13店のおかみさんが、賑わいを創造しようと立ち上がったおかみさん会が、毎月8日にテントを張り、昼市を開いて地元の名産を販売し人を呼ぶ。昼市の売上金の中から、社会福祉機関へ寄付をして地域にも貢献しているそうだ。素晴らしい!
岡部町名店会加盟の商店の中の13店のおかみさんが、賑わいを創造しようと立ち上がったおかみさん会が、毎月8日にテントを張り、昼市を開いて地元の名産を販売し人を呼ぶ。昼市の売上金の中から、社会福祉機関へ寄付をして地域にも貢献しているそうだ。素晴らしい!
五智如来像(町指定文化財)公園内にある 内谷の誓願寺が廃寺となり境内にあったが、現在、寺跡に移されている。釈迦如来、阿閦(あしゅく)如来、大日如来、宝生如来、阿弥陀如来
五智如来の昔話し
昔、当時の田中城主だった内藤紀伊守に、お口の不自由なお姫様があった。
このことが絶えず殿様と奥方の心痛の種で、ある日この話を耳にした徳川家の奥方から、岡部宿のはずれ誓願寺の五智如来をひたすら念ずるように紹介された。
そこで早速殿様は奥方共々家老をつれ、この寺にまいって願をかけた。
いく日か経ち、霊験あらたか、お姫様はやがてお口も不自由なく話されるようになり立派な大名の許へおこし入りされた。
殿様はいたくこのことに感謝され幾ばくかの田、畑を寄進された。
09:00 長嶋酒店の角にある常夜燈のある道に入って行く。




旧岡部町の仕切弁と消火栓が可愛い♪
09:06 光泰寺
09:11 正癒院
09:14 問屋場跡
幕府の公用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りました。しかし、公用の仕事がない時には、一般旅行者や荷物を有料で送りました。岡部宿には、岡部本町と加宿内谷の二か所に、問屋場がありました。
09:16 内野本陣史跡
幕府の公用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りました。しかし、公用の仕事がない時には、一般旅行者や荷物を有料で送りました。岡部宿には、岡部本町と加宿内谷の二か所に、問屋場がありました。09:16 内野本陣史跡
丸子宿 宿境まで一里 →【岡部町 岡部宿】→ 藤枝宿 宿境まで一里十四町
ここまで、16876歩、2時間26分 10.1Km
09:21 大旅篭柏屋
「岡部宿大旅篭柏屋歴史資料館」
座敷に上がって見学すると300円。
上がらないで見ながら通り過ぎると無料。
通り過ぎながら写真撮影OK☆
「岡部宿大旅篭柏屋歴史資料館」

座敷に上がって見学すると300円。上がらないで見ながら通り過ぎると無料。
通り過ぎながら写真撮影OK☆
弥次さん喜多さんと一緒に撮って下さって記念撮影☆


受付の女性はとても親切で感じが良かった♪


受付の女性はとても親切で感じが良かった♪09:28 岡部橋(岡部川)を渡る
この辺りが広重の絵の場所?
この辺りが広重の絵の場所?



歌川広重 東海道五拾三次 岡部 宇津之山

宇津の山は、古来峻険で知られる難所でした。
宇津ノ谷峠は、蔦の生い茂った杉の山が迫り、昼でも暗い細道は心細い。柴を縦に束ねて担う樵夫や、柴を横に束ねて背負う女性が描かれています。両側から迫る山すその圧迫感を濃い草色で埋めた色調、湾曲した道と、その脇を清流が走る構図は、距離感を増し、絵の完成度を高めています。画面奥が丸子方面で、この道を下ると岡部の宿につきます。
波打つような岡部川。流れの激しさが伝わってきます。
柴を束ねて背負った樵夫たちが列になって急な坂道を下っていく、山間の日常風景です。
宇津ノ谷峠は、蔦の生い茂った杉の山が迫り、昼でも暗い細道は心細い。柴を縦に束ねて担う樵夫や、柴を横に束ねて背負う女性が描かれています。両側から迫る山すその圧迫感を濃い草色で埋めた色調、湾曲した道と、その脇を清流が走る構図は、距離感を増し、絵の完成度を高めています。画面奥が丸子方面で、この道を下ると岡部の宿につきます。
波打つような岡部川。流れの激しさが伝わってきます。
柴を束ねて背負った樵夫たちが列になって急な坂道を下っていく、山間の日常風景です。
東海道五十三次 狂歌入り 宇津ノ山
岡部宿の手前にある宇津ノ谷の峠ごえ。今の国道1号線はこの難所をトンネルで通過する。
なぜもっと海岸線に近い場所を選び、平坦な街道を通さなかったのか、大昔の人の道の付け方は一見不合理なようでいて、正しい。輸送方法はもっぱら人力運搬だ。他には荷駄を積んだ牛馬が通れればいい。だから街道の幅は狭い。
わざわざ遠回りせず、自然の懐へ飛び込むようにして探った細道で充分だった。まっすぐな道は得てして怪しい。
岡部の一里塚 (見当たらず)
江戸日本橋から四十八里

江戸日本橋から四十八里
09:31 常夜燈 小祠
川原町を通り進む。
岡部は、宇治・八女と並ぶ玉露の三大産地だと言う。
この辺りにも、お茶を扱う大きな倉庫があった。
岡部は、宇治・八女と並ぶ玉露の三大産地だと言う。
この辺りにも、お茶を扱う大きな倉庫があった。
枡形跡 (岡部宿東木戸跡)

09:35 十石坂観音堂(町指定文化財)
石段を上がる。削られた崖の上にある。
石段を上がる。削られた崖の上にある。
家康から四代将軍家綱までの位牌が安置されている。
入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。
江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。
入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。
10:00 岡部町 横添
10:03 道の駅 宇津ノ谷峠 トイレ休憩
http://www.cbr.mlit.go.jp/michinoeki/syousai/shizuoka/s_04.html
http://www.cbr.mlit.go.jp/michinoeki/syousai/shizuoka/s_04.html



10:12 坂下地蔵堂
御堂の裏に蘿径記碑跡
蘿径記碑は文政十三(1830)年、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末長く残すために建立した石碑。「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。
御堂の裏に蘿径記碑跡
蘿径記碑は文政十三(1830)年、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末長く残すために建立した石碑。「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。
天下の公道となった東海道宇津谷峠はさまざまの人が越した。将軍・公卿・大名行列・色々な庶民・最後の大行列は明治天皇であった。明治九年(1876)トンネルが峠の真下に出来るまで二百七十年間、天下第一の公道峠の標高は170m、東海道分間延絵図によると峠地蔵・六地蔵・供養塔二基・榜示杭二本、有渡郡・志太郡境とある。
峠地蔵堂は現在慶竜寺本堂となり、供養塔一基は原位置にそのままある。
10:14 旧東海道(別名 大名街道)
この道は、駿河国の安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。
一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、
もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である(東海道以前の峠越えの道)
この道は、駿河国の安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。
一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、
もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である(東海道以前の峠越えの道)
鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である。上り下り八丁(約870m)の険路であった。
ここで鬼退治にからむ十団子の伝説の生まれた。
豊臣秀吉が天正十八(1590)年七月、小田原城を落し、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通った。
豊臣秀吉が天正十八(1590)年七月、小田原城を落し、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通った。
慶長六(1601)年徳川家康が、五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来が頻繁となり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、二十万石以上の大名は武将が二十騎、足軽が百二十人から三百人もあり、一万石の大名でも五、六十人の供揃えで、その行列はこの峠をうめつくした。
この道も明治9(1876)年トンネルの開通によってとざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。

10:15 また峠越えなの?山道に入ります^^;
10:16 道標
丸子宿 宿境まで十八町 →【岡部町 東海道参勤交代の道】
丸子宿 宿境まで十八町 →【岡部町 東海道参勤交代の道】
→ 岡部宿 宿境まで十八町

10:25 髭題目の碑
字が髭のようだから~~~
字が髭のようだから~~~
10:32 明治のトンネルへの分岐点




旧東海道を歩きたいので、そちらの道へは行かないことにしました。
更に登ります。
10:41 宇津ノ谷峠 地蔵堂跡
こんな静かな山奥で。。。礎石が往時を偲ばせている。

こんな静かな山奥で。。。礎石が往時を偲ばせている。


10:43 地蔵堂石垣が残っています
10:45 雁山の墓
雁山は松尾芭蕉と同門の山口素堂の甥、幼少の頃から素堂に儒学・茶道・俳諧などを学んだ。
享保十二年(1727)頃、友人関係に音信不通で七・八年もの旅に出た。友人達は彼が旅先で亡くなったものと思い、法筵を開いていた。
このうわさも当然駿河に流れて来た。かねて彼に俳諧の指導を受けていた人々により、享保十五年六月この墓の建立となったものと思われる。
雁山は松尾芭蕉と同門の山口素堂の甥、幼少の頃から素堂に儒学・茶道・俳諧などを学んだ。享保十二年(1727)頃、友人関係に音信不通で七・八年もの旅に出た。友人達は彼が旅先で亡くなったものと思い、法筵を開いていた。
このうわさも当然駿河に流れて来た。かねて彼に俳諧の指導を受けていた人々により、享保十五年六月この墓の建立となったものと思われる。
雁山はその後、黒露と改め、駿河で俳諧の師匠をしていて、宇津ノ谷の自分の墓の前を通っているらしい文があるといわれているという。
雁山は墓碑面の享保十五年から三十七年も長生きをして明和四年十二月十日(1767)甲府で八十一才の生涯を閉じた文人。
雁山は墓碑面の享保十五年から三十七年も長生きをして明和四年十二月十日(1767)甲府で八十一才の生涯を閉じた文人。



10:51 下山してきました

「東海道宇津ノ谷峠越え 入口」

道標
丸子宿 宿境まで十町 →【静岡市 宇津ノ谷】→ 岡部宿 宿境まで二十六町
10:56 石段を下りると集落の屋根が見えてきました。
つづく。。。



