「何のために生まれて、何をして生きるのか」

 

 この問いにしっかりこたえられる大人になりたかった。死にたいってわけではないけれど、なぜ生きているのだろう。この先、生きていったとして何になるんだろう。と漠然とした疑問が最近ずっとある。この先何を見据えて生きていけばいいのだろう。極論、就職や結婚ができたとして、それがなんだっていうんだ。来年からは、普通の会社員になって、夏休みのない8月が繰り返すと思うと、この世界に拘ることにそこまでの値打ちがあるのだろうかと疑問になってしまう。”なんのために生まれて 何をして生きるのか” アンパンの姿でガキの相手をしてる生き物が投げかけてくるこの問いに答えられるか否かで、簡単な人生の答え合わせができるような気がした。でも、真正面から、この問の答えを答えるのは自分には難しいと思った。

 

 就活を始めたときは、人々が心から感動するような体験を作ることに携わりたいと思った。まだ中途採用ルートを諦めていないけど、時々見る「自分のやりたいことを仕事にしよう」という言葉は、幻想に近いと思う。個人的に、厳密なやりたいことというのは、やりがいや達成感などの付随する恩恵を排除しても、自分がお金を払ってでもやりたいと思えるようなことだと思う。ただ、そこまでしてやりたいことを仕事にできるのは、この世の中でほんの一握りだと思う。やりたいことがある人は、できることは精一杯やってみた方がいい。ただ、適度な引き際は見極めなければならないと思う。強すぎるくらいの信念がないと、後で強く後悔してしまうと思う。この世にやりたいことを実現するために働いているひとはいるれど、多くの人は、社会の中の頑張れそうな役割で頑張るしか無いのだろうと思った。

 

 かと言って、そしたらお金さえあれば一切働かないのかと言われたらそうではないと思う。結局、仕事は、社会的分業の一環なのだと思う。就活は、学校でやるクラスの係決めのようなものな気がした。家に牛肉が届くまでの一つを取っても、牛を育てる人、肉を運ぶ人、肉を加工する機械を作る人、機械のための鉄を作る人、スーパーを建設する人、スーパーを運営する人、と膨大な数の人が役割を担いあって、この社会が成立してる。「この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。誰からも自分は必要とされていないと感じることです」という言葉からも考えるに、社会においてこの役割を担っているんだというやりがいで、仕事をしている人が多いんじゃないかと今のところ予想している。それに加えて、待遇や名誉を原動力に働いている人がほとんどなのではないかと思う。

 

 いのち輝く未来社会のデザイン。2025大阪万博のテーマだ。いのちの輝いてる瞬間と想像すると、自分は、高校で学校祭の副委員長をやっているときが思い浮かぶ。ただ振り返ってみるに、それは学校祭そのものの面白さもあるが、大規模な一体感と必死感、そして一緒にやれて良かったと思える人間関係に囲まれて活動できたことが、いのちが輝いていると形容できるような充実感を感じさせたのだと思う。

 

 僕のいた高校の学校祭の体制を簡潔に言うと、生徒会の運営側として幹部が約40名と委員が約200名いた。それに加え、文化祭のクラス企画や部活企画、体育祭のマスゲームを含めると、全校生徒の1082名のうち900名程度は、夏休みもかなりの頻度で学校に来て学校祭の準備を進めていた。高校という限られたコミュニティで生活しながら、そのコミュニティのほぼ全員が9月の学校祭に向けて動いていた。まさしく全校を挙げての一大イベントであり、ほとんどのみんなが同じ方向を向いて力を注いでいるあの雰囲気が好きだった。特にその中でも自分は副委員長だったので、必死だった。本番前の2週間は、7時に登校して準備、8時から16時まで授業を受けた後、19時まで準備して下校、家に帰っても2時間作業という具合に、ほとんどの時間を使っていた。そこまで必死にやれたのも幸せだったと思う。そのような活動を素敵な仲間に囲まれて成し遂げることができた。井の中の蛙だとは思うが、あの大規模感と必死感、夢中さは、とても貴重だったように思う。

 

 ハーバード大学によると、「幸福とは、同じ志をもつコミュニティで頼り頼られ生きること」という研究結果があるらしい。まさしく高校の時がこのようなコミュニティだったと思う。この研究結果が確かなら、「何のために生まれて、何をして生きるのか」を考えるのと同じくらいに、どんなコミュニティで暮らしていくかというのが大切なのかもしれない。働くということを考える上でも、職場がそのような性質を持つコミュニティであるなら、いのちを輝かせて働いていけるのかもしれないし、そんなコミュニティ作りをしていくべきなのかもしれない。

 

 自分の大学生の時間の使い方が本当にこれで良かったのかと考え始めると少し疑問になってしまうところがある。何かに全力を尽くすべきだったかもしれない。けれど、高校の時に感じたほどの強い興味を引くものは特になかったし、心の中に何かに力を尽くすだけのエネルギーがあったかと聞かれるとわからない。昔より平穏という言葉をかなり好むようになったのもあると思う。でも、その点を除いては、彼女はいなかったけど、4年間を通して、色々な人に出会うことができたし、色々な経験を積むこともできたし、イベントの運営にも程よく携わることができ、旅行も沢山行けて、充実して日々を過ごせたので良かったと思っている。何かを変えれば、何かが変わったかもしれないけれど、今出会えてる誰かに出会えていないかもしれないし、経験できた何かを経験しない方向に変わるかもしれない。自分の過ごした時間というのは、全てがそれぞれ関わり合いつつ成り立っていて、どれも欠かすことができないものなのかもしれない。そんなことも考えると、結論よく過ごせたのではないかと思う。

 

 「どこに行くか」より「誰と行くか」、「何を食べるか」より「誰と食べるか」、人生の幸福度は、人に大きく依存していると思う。生きていてよかった瞬間を考えれば、きっと多くの人はだれかとの思い出を思い出すのではないだろうか。生きるとは、誰かと心を通わせること。人間は決して一人では生きられない。そんな映画のセリフもあった。良質な出会いは、恐らく何事にも変えがたいので大事にしていきたいと思っている。

 

 ただ、いい人間関係って結局何なのだろう。長く続く関係がいい関係なのか。たとえ一回しか会わなかったとしてもいい関係と呼べるのものはあるのか。良く会う関係がいい関係なのか。何年も会っていなくても関係ないのか。気が合うことがいいのことなのか。尊敬できることがいいことなのか。それに加えて、真の意味で人を信頼するってどういう意味なのだろう。友達を相手に一生側にいてなんていうのはあまりにも重すぎるし、大体人生の大事な局面において、友達としてできることはあまりにも少ない。ただ、何も頼ることができないかと言われればそうではない。仲のいい人はそれなりにたくさんいると思っているが、信頼って言葉をどんな感覚で使う言葉なのかいまだによくわかっていない節がある。あまり温かく無い家庭で育ってきたので、友達なら基本的にみんな信用しているが、全員のことを信用していないという心持ちが染みついてしまっている。結局、いい人間関係というのは、一緒にいたいと思えるかという単純なものに収束してしまう気がしているが、何をもって良質な出会いというのだろう。

 

 最近、SUPER BEAVERの人としてという曲を聴いたときに、「信じ続けるしかないじゃないか」と「かっこ悪いから」という歌詞が強く耳に残った。この歌の文脈とは異なるけれど、結局、自分の人生のことも友人のことも、信じ続けるしかないんじゃないかと思った。そして、そうする理由は、そうしないことがかっこ悪いからというとても単純な理由でしかないかもしれないと。信じられるか信じられないから適切に考える必要はあると思うが、結局は考えても無駄だ。ただ、ある本で読んだ「信頼は98%にしておきなさい。裏切られた時に許せなくなるから。」という言葉も重要だと思う。結局は、覚悟も決めたうえで、信じ続けるしかないのだろうと思った。

 

 人間の最大の敵は、孤独と不安だって聞いて深く納得した記憶がある。人が大好きってわけではない自分でも、人に会わないと気が滅入ってくる。1人でも割と平気な方だけど、そうならざるを得ないお家で育っただけであって、1人が平気になりたかったわけではない。世の中には、しんどい人間関係もあるから1人を選ぶ人もいるが、誰だって1人は寂しいに決まってる。できるかどうかは別として、結婚はしたいと思う。平凡な人間なので、今までの幸せだった思い出を考えたときに、彼女がいたときの思い出がかなり上位にくるし、それに、独身だといつか一人ぼっちになると思う。一生側にいてなんてわがままがほざけるのは、結婚ぐらいだろうから、できたらいいなぁと思っている。愛の定義で一つ好きなのがあって「人はこの人と一緒にると、とても自由に振る舞えると思えたとき、愛を実感する。」そんな人に出会えたらいいなと思う。

 

 人間関係は大切にすべきだと思っているが、無理をして作る必要はないとも思っている。求めるのはしっかり中身のある人間関係であって、仮初の人間関係なんて、何の役にも立たないだろうから。もし一緒にいたいと思うような人がいないのならば、来るべき時まで孤独を受け入れようと思ってしまう。その孤独の可能性を受け入れる代わりに、無駄に人にかかわる気はない。それ故、話したり遊んだりする友達のことは、全員好意的に思っている。そのような考えでも、少なくはあれど一定の友人に囲まれてここまでこれたのは、運と環境に恵まれていた。それでも、人間と関わるとどうしても傷つくタイミングや疲れるタイミングは避けられないもので、それらすべてから逃れて、誰ともかかわらずに、一人で生きていった方が幸せなんじゃないかと思う時もある。けれど、またある時は、人と一緒にいるのが楽しくて、ずっとこの人たちと一緒にいたいと思う時もあり、このバランスが難しいと思う。100%嫌な人間は関わらなければいいが、たいていの人間にはいい面と悪い面がある。例えば自分は、連絡を返さない等の連絡が杜撰な人間が嫌いだが、それだけで関わらないと決めていたらキリがない。本当に関わっていくべきなのだろうかとかしっかりと考えたうえで、人として生きていかなければならないのだろうと思う。

 

 人と人とが関わるうえで、距離の近さというのは、大きなきかっけの一つだと思う。同じ学校に通っている、同じ団体に所属している、同じバイト先で働いている。でも、いつかそこを離れたときに、わざわざ自分にかかわる価値がどこにあるのだろうと考えてしまうときがある。近くにいること以外に価値が無かったらどうしようと。自分は人として生きるのがつくづく向いていないと思う。一つの考え方として、卒業した後も仲の良い人が本当の友達だよというものがある。年々減っているような気がするが、幸いまだ高校の友達がいる。それでも、時々自分に本当に友達がいるのか不安になるときがある。高校の時は、組織の中で副委員長などの複数の役職についてて、様々な枠組みに属していたから卒業後もその枠組みで仲良かったけれど、大学では、何処においても特に役職とかにつかなかったから、脆く儚いかもしれないという不安が少しある。

 

 人生には、賞味期限があるって言葉を聞いたときに、人間関係にも賞味期限があるんじゃないかって思った。3年仲良かったから許される無礼があるのではなく、油断しているとその人との人間関係の賞味期限が3年だったということになってしまう気がする。ただ、どうしようもないときもあると思う。現実として今の社会は、一生同じコミュニティで生きていくようにできていない。”今しか会えない人がいて、今しかできないことがある” ある本にこんなセリフがあった。後で手遅れにならないように、精一杯今を生きなければいけないのかもしれない。

 確かなことが1つだけある。もう会ってない人も含めて出会えてよかったと思える人が沢山いた。それぞれの人との間に、忘れられない思い出がある。文化祭のフィナーレで一緒に表彰したとき、18きっぷでみんなで北陸まで行ったとき、傘が折れて爆笑したとき、お祭りの終わりに一緒にビールを飲んだとき、カタンで勝ったとき、早起きしてハンバーグ食べたとき、年越しに参拝にいったとき、満天の空に広がる花火を見たとき。人生は、そんな一瞬一瞬の積み重ねかもしれない。"すべての人類は旅人であり、人間関係とはふらり旅の途中で出会った人と、一晩トランプをするようなもの” 人間関係というものはここに尽きるのかもしれないと思った。正直、まだ人間とのかかわり方でわからないことが多い。もし何かアドバイスがあればいつでも待っている。

 

 宮崎駿監督がとある引退会見で語っていた「この世は生きるに値する」という言葉がとても印象に残っている。「子供たちに、この世は生きるに値するんだということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければならない。」 あの宮崎駿が仕事の根底に据えていることが、「この世は生きるに値する」というのが、少し意外で、少し嬉しかった。ただあの巨匠は、別の場面で「子供が成長してどうなるかといえば、ただのつまらない大人になるだけです。大人になってもたいていは、栄光もなければ、ハッピーエンドもない、悲劇すらあいまいな人生があるだけです」と語っているので、この言葉は大人に向けられた言葉ではないのかもしれないというのが少し残念なところだ。

 

 自分が、今、なぜまだ生きているのって聞かれたら、まだやってみたいことがあるから。と、生きていてもいいなと思える瞬間がそれなりにあるからと、答えると思う。前者に関しては、まだ行ったことのない旅行先や、やってみたい経験がスマホのメモに忘れないように残してある。後者に関しては、学旅祭のフィナーレや、夏祭りのパレードの終わり、満天の花火、いつかの盛り上がったカラオケ、幸いなことに生きてよかった瞬間や楽しい瞬間がまだ定期的にある。それに、まだこの世界に好きなものもいっぱいある。お気に入りの本や映画、レストラン、旅行スポットなどが沢山あって、まだもう一度体験したいから、生きてるんだろうと思う。自分が何が好きだったんだろうと見失わないようにこれもメモに残してある。でも、生きていて良かった瞬間というのは、あまりに刹那的で、「何のために生まれて、何をして生きるのか」の答えにはなってない気がしている。生きていて良かった瞬間を集めるのだけでも十分な理由になりえるのだろうか。まだ社会に出たことがないから実際どんな大人が多いのかわからないけれど、実際どうなのだろう。

 

 塞翁が馬という言葉がある。人生の幸不幸は予測できないものだというたとえだ。ある男の馬が逃げてしまったが、数か月後、仲間として他の馬を連れて帰ってきた。その後、その男がその馬に乗り落馬して足を折ったが、おかげで兵役を免れて命が助かった、という故事に由来している。一見悪い出来事に見えても、未来で意味付けが変わる場合もある。短絡的な判断をしてはいけないのだろうと思う。話は変わるが、とあるコンサルタントが「我々もクライアントに対して100%正解を提案できるわけではない。提案した後は、提案したものが正解になるよう努力をするしかない。就活も同じで、就職先をしっかり考えることも大切だが、就職先を決めた後は、その就職先が正解になるように努力をするしかない」と語っていて、妙に腑に落ちた。生きていくにあたって、今変えられるものと変えられないものがある、それを見極めて、冷静に対処していくことが大切なのだと思う。


 人生は、RPGゲームくらいに捉えているのがちょうどいいのかもしれない。各々が好きなように好きなペースで経験値を上げていくことを楽しめばいい。物語が進む中で、悪い出来事が起こったとしても、それが本当にただの不幸なのか、幸運の原石なのかは、最後まで分からない。途中で間違えた選択をしたかもしれないと思っても、それを正解にするしかない。 20年ほどゲームをプレイしてきても、まだ60年近く先がある。クリア率は25%ほどだろうか。まだどんなエンディングにもたどり着ける段階だろう。結末はどう転ぶかわからないが、きっとハッピーエンドになるだろうと信じて、進め続けるしかない。人生を考えるというとすごく難しくなってしまうが、ゲームだと捉えて楽しむ心構えができれば、少しは心を楽にして生きていけるかもしれない。

 

 今どんな人生を歩みたいかと考えたときに、成し遂げたいことなんて特にないし、偉人になりたいわけでもない。やってみたいことをやりきって、大切な人に囲まれて、ほのぼのと好きなことをやりつつ、平穏に暮らせたらそれでいいと思っているけど、「自分」というものを大切にして生きていきたいなってなんとなく思っている。どんな人間でありたいかという像が少しだけあって、そのちょっとした拘りが、自分の人生の唯一無二性や誇りになるような気がして、ちょっとした信念みたいなものがあればいいなとだけ思っている。


 ”いい大人とは、言うまでもなく、命の慈しみ方を知っている人のことです。悪い大人とは、時間、お金、感情、すべてにおいてケチな人々のことです。” 高校の生徒会の先生が教えてくれたとても印象に残っている言葉だ。人として生きるということを考えたときに、命を慈しむという言葉が1つの重要なキーワードだと思っている。慈しみという言葉のニュアンスや意味の解釈に余白を残したニュアンスが、とてもいい塩梅な言葉に感じている。「慈しむ」という言葉は、広辞苑によると、「愛する。かわいがる。大切にする。」とされている。命を慈しむこと、悪い大人の話からも考えると、時間やお金、感情など、全てに対して、愛情をもって大切にする。有意義な時間の使い方を心がけてみたり、自分の感情を大切にしてみたり、そういう生き方を知ることな気がしている。

 

 人生において、重要なことはきっとシンプルなのだと思う。”人はたったひとつの自分の一生を生きることしが出来なくて、あといくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わる、でもそのひっかきかたに自分の一生がかかっているのだ"、谷川俊太郎さんのとある詩の言葉だ。誰かの人生を変えるようなことはできないし、人の人生に干渉するべきでもない。でも、人と人の関わりは絶え間なく続いていて、その関わり合いで生まれる些細なひっかき合いの中で、どんなひっかき方ができるか、どんな話をどんな表現で話したりどのタイミングでどんな接し方をしたり、そういうことに自分の一生がかかっているのではないかと感じた。些細なことに、意外と本質が隠れていて、そこを大切にすることに、慈しみと呼べるようなものがあるのではないか、そんな気がしている。

 

 ”人間は、考える葦である” 人間として生きる上でとても大切なことの一つに、自分の力で考えることがあると思っている。”常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ" このスタンスがとても重要だと思う。他人の伝聞や本の情報よりも、自分の体験、実際に目にしたもの聞いたものから基づいて考えたこと、そこには、唯一無二の価値があるのだと思う。例えば、平和主義の考え方一つとっても、みんながそう言うからとか学校で教わるからそうなのだろうと思っている人と、実際に色々な場所に足を運び見て聞いて、自分なりに考えて自分の考えを作り上げた人を比べたら、後者の方が深みのある考え方を持てるような気がする。その些細な違いに価値があるのだろうと信じている。

 

 とはいっても、実際自分なりの考え方を持つことは、体力がいることだ。学ぶこと・気づくこと・知ること・考えること、それにより、本当に正しいのが何かわからなくなってしまうときもある。どんな考え方も批判される可能性はあるし、神でもない我々に正義などわかるはずもない。ルーズベルト大統領も、"自分が正しいと思うことをしなさい。どちらにしても批判されるのだから”と語っていた。でも、思考をすることをやめるべきではない、考えることを投げ出すべきではない、自分が正しいと考えることを自分の力で考えること。大変で体力を使うことだけど、それを大切にしたい。”簡単すぎる人生に生きる価値などない”、ソクラテスの言葉だ。考えることを諦めず、感じることを疎かにせず、自分で向き合っていくこと。自分で考えて、自分が本当に正しいと思うことをすること、自分の価値観をちゃんと考えて生きること、それを生きる上で個人的に大切にしていきたい。

 

 考えるときに大切にしたい視点の一つとして、どんな価値観にも優劣はないという視点がある。人がどんな価値観を持つか、そこについては他人は一切干渉できないし、優劣もなく、どちらも正しく、どちらも間違っていて、否定しないようにしていたい。落ち込んだ人に接するとき、積極的に話しかける対応にも、そっとしておく対応にも、それぞれの考え方があるのだろうと。これはどんな価値観でも理解する必要があるというわけではなく、相手を否定しないというところがポイントだと思っている。他人の価値観を否定しないこと。気に入らない価値観だからと言って、対立する必要はない。人と人の間には、恐らく適切な距離というものがある。その存在を認め合い、お互い譲歩し合ったり棲み分けたり上手く共生する道を探り合いつつ、生きていくことが大切なのだと思う。

 

 ただ、例外として認める気のないものが2つある。周りへの迷惑を厭わない傲慢な人間と最低限の連絡すらできない無責任な人間だ。周りの配慮に甘え自分勝手に過ごす協調性のない人間は、社会にいらないと思っている。変わり者だろうが、常識に疎い世間知らずだろうが何も気にしないけれど、他人への礼儀や敬意を持てない生き物は、問答無用で関わりたくない。すべての人に平等に接するなんて詭弁だと思っているし、最低限のことさえしなければ排斥されても自己責任だと思う。最低限の社会性をもって慎ましく暮らし合ってる人々が、我慢する必要は断じて無いと思う。最低限の社会性すら持てない生き物は、公共の福祉の観点で人間社会から追放されても自業自得でしかないと思っている。

 

 どんな価値観にも優劣はないという視点を持つにあたって、”無邪気”という言葉が1つのキーワードになると考えている。子供みたいに、世間の物事をフラットに捉える無邪気さが、とても重要なのではないかと思う。固定観念や偏見などの邪気がなく、常識にとらわれず、社会を眺め、自由な発想を持てる大人でありたいと思っているし、そんな人が好きだ。人々の持つ固定観念に、自身の持つ感性を素直に信じ、どうして?と素直に疑問を持てる人は強いのではないかと思う。そんな無邪気さというものが何かを変えるきっかけを掴む一歩になるかもしれないし、少しでも上手に生きていくにあたっての一つのヒントになるのではないかと思っている。

 

 加えて「今重要なことは何か」という視点は、常々忘れないようにしたい。自分の人生にとって今一番重要なことをしっかり考えないと、優先順位なんてものは簡単に見失ってしまう気がする。本当に大切なものは意外に少なくシンプルで、それを選び抜かなければいけない。「今」やらなければならないことを俯瞰的に考えることは、自分の人生を有意義にするうえで欠かせないと思っている。

 

 春休みに見に行った震災遺構にこんなメッセージがあった。

 「ときに大事なことを見失い気づけなくなることの恐ろしさを知ってほしいのです。「なぜ」一番大切なものが見えなくなるのかを考えてほしいのです。いのちの尊さを 誰もが理解しています。平和な日常を誰もが願っています。話し合うこと、考えること、ともに確かめ合うことできっとあるべき未来は続いていくはずです。」

 防災教育の本質をとらえた非常に深い文章だと思った。それと同時に人生も同じかもしれないと思った。人生が一度きりなことも、時間は決して巻き戻せないことも、誰もが理解しているはずだ。ただそのことを見失い、気づけなくなることは多い。なぜ大切なものが見えなくなるのかを考えることで、あるべき未来は続いてくのかもしれない。

 

 「何のために生まれて、何をして生きるのか」そして、「どんな自分となり、何に価値を感じるのか」このことについては考えておきたいと思うんです。就活前の2月にまとめようとファイルを作ったのに6月になりました。しかも最終日。怠惰ですね。本当はもう何冊か本を読んでから何か書いてみよう思っていたんですけど、そしたら10月になってしまう気がして一旦。人類で最も偉大な発明は文字だと思うんです。人一人の考えられることなんてたかがが知れてる。文字があるからこそ、本を通じていろんな考え方に触れられて、少し落ち着く気がするんです。