少し暗い話なのでちゅういです。しかも5000字あります。

 

 基本的に人に好かれないと思って生きている。別に人に話しかけることはそこまで苦ではない。バイトの性質上、初対面の偉い人のところに行ってくるおつかいが時々発生するが、ちゃんとこなしている。でも、自分が個人的に話しかけるという行為は極端に苦手だ。人間の中には、話しかけられて喜ばれる人とそうでないと人がいることは仕方ないと思う。その分類で行けば自分は恐らく後者だと思う。だから、個人的に話しかけるのは、迷惑をかけているみたいでとても申し訳ないし、基本的にはしない。この文章を、書いた人物を直接知ったうえで読んでいるのは、そんな自分に親しくしている人だと思うが、ほとんどの人が一番最初の会話は、話しかけた側だろうと思う。加えて、そもそも他人への興味が薄いという問題もある。なので、苦手に加えてわざわざ交友を広げるために話しかけるという選択肢があまりない。人は人、自分は自分だと思うし、自分に危害がない限り、他人のことは悪い意味ではなく、特に自分が気に留めることではない。それ故、基本的に人に対して、好き嫌いもあまりない。あるお気に入りの歌詞がある。”誰かを拒むための鎧など、重たいだけだから捨てましょう” 自分から関わることが苦手だから、せめて拒むための鎧だけは、持たないようにしたいと思っている。連絡を取るということに関しても、用がない限り、基本的に自分からは連絡はしない。どうしてもやりたいことがあって、それで他人が楽しんでくれる自信があるときは、誘ってみるが、1人で行けるなら行ってしまう。連絡がきたときに、それを返すのが億劫だと思うことは特にないし、喜んで応じるのだが、自分から連絡を取ること苦手というより、その行為が日常生活の中に選択肢としてない。それが原因で、完結していった人間関係がいくつかあるように思うが、どうにも仕方ないと思ってしまう。せめてもとして、せっかく誘われた時はほぼ必ず行くし、お願いされたら大体聞こうと思っている。シンプルに自分が、好奇心旺盛で割とどんなことも楽しめるタイプでもあるし、親しくない環境に呼ばれるタイプでもないので、それで楽しく過ごせている。

 

 人と話すときに、その人の気持ちはわかる方だと思う。楽しいと思っていることも、逆に、楽しくないと思っていることも、なんとなくすぐわかってしまう。実際の答え合わせはしたことないので、見当違いな可能性は大いにある。ただ、グループワークや授業の班などの仕方なく集まった場で、明らかに楽しそうではないのに沈黙が怖いのか、話しかけてくる人が非常に苦手だ。あの生き物はなんなんだろうと時々思う。そういう場面においての出会いも大切にするべきだと思うが、そもそも興味がないのなら、その意思を感じ取りつつ会話を続けるのが苦痛だ。自分が話しかけられたときは、せっかく話すなら最低限最初は、興味をもって話すようにしている。それができないなら、やることだけやって、ちょっとした待ち時間は、黙っていた方がこちらとしてはまだましな時間が過ごせるので、話しかけないで欲しいと願ってしまう。そういう人だけは、ずっと興味ないままならば、こちらも興味ないとわからせようとして、会話を終える方向にもっていってしまう。逆に言えば、非常識でない限り、自分のことが好きな人や興味がある人は、たいてい自分も好きだし興味がある。好意的に接されると、単純に喜んでしまう。なんなら、ほとんど愛されたこともないので、一歩踏み込んで自分を好んでくれると、簡単に好きになってしまうと思う。非常に単純だが、別にそんな人はほとんど現れない。ところで、男子と女子はどこまで友達になれるだろう。異性の中でも仲のいい人が何人かいて、目的と予定があったり、暇だったりしたときに、ご飯食べたり、電話で話を聞いたり、東京で泊めてあげたり、旅行に行ったりと、純粋に友達として過ごしているが、性別が違うからこれ以上仲良くしないってするものなのかと、時々思う。彼氏ができたからちょっと距離を置くわ~と言われれば良かったね~と言うし、自分も彼女ができたらその時は考えるけど、今はいない。毎日くらいで通話してたらそれはまた違う話がっては思うけど、そんなことは全くないので、別に深く考える話でもないが、時々一般論が気になる。

 

 昔調べてこの単語にたどり着いたが、恐らく基本的信頼感がない。母親は一旦おいておいて、父親にやさしくされた記憶はなければ、なんなら怪訝に扱われた記憶だけある。自分の価値は基本的にないと思っているので、そんな自分が迷惑をかけている事実への自己嫌悪が強い。烏滸がましく感じてしまう。このような考えた方になるのはもはや一種の呪いだと思う。先ほどの話にもつながるが、自分という存在の中では、人に話しかけるという選択や、自分から連絡を取るという選択は、基本選択肢に入らないような呪いもある。呪いという言葉を使って言い訳をしてるだけと言われてしまえば、そうなのかもしれない。話しかけらた時には、一定のコミュニケーションをとっており、友達がいるコミュニティといないコミュニティの差は非常に激しいし、友達は非常に少ない方だが、生きていけるので、半ばもうあきらめている。1つの弊害として、時々自分のことを大切に思っている人間はどのくらいいるのだろうと悲観的になることがある。人間と関わるとどうしても傷つくタイミングや疲れるタイミングは避けられないもので、それらすべてから逃れて、誰ともかかわらずに、一人で生きていった方が幸せなんじゃないかと思う時もある。それでも、またある時は、人と一緒にいるのが楽しくて、ずっとこの人たちと一緒にいたいと思う時もあり、自分ってめんどくさいと思う。ちなみに、人のちょっとした言葉に傷つくことはあまりない。自分の敵で一番戦闘力が高いのは自己嫌悪で、後悔や不甲斐なさ、申し訳なさが元になっている。その次に、疎外感や孤独が続いている。

 

 もっと丁寧に生きればよかった。要約するとそんな後悔がある。欲しいと思ったものは手に入らなくて、要らないと思ったものが手に入りそうで、あの時要らないと思ったものが欲しくなって。あの時は確かにあの選択肢が正しいと思っていたけど、今考えたら全然そんなことはなくて。でも、あの時に見えた視野や当時の思考回路からは、その答えしか出せそうにはなくて。もっと他人の言葉や行動の1つ1つを丁寧に捉えて、自分のことも丁寧に考えればよかった。人生の重要な選択は、どんなことも大体1回目で、全てを正解できるわけもないのに、どうにかしたかったと願ってしまう。よく”そういうのも経験だよ”というセリフがある。確かにそうだと思う。2度と後悔しないよう気を付けようと思う。ただ、その得られなかったものがどうしても得たかったと思いだしてしまう。時間だけは絶対に戻らない。22歳の10月は、どうあがいても今月の一回しか来ない。後悔は、”正しい道に向かうための心の表れ”と言っていた人がいた。それも、今更正しい道に迎えたところでもう遅いとしか思えない。現実的な救いとなるのは、”ネガティブを潰すのは、ポジティブではなく没頭”、という言葉だ。後悔というネガディブから目をそらしているだけだが、一番現実的な救いだ。後悔というものの付き合い方に関しては、自然と忘れるまで、目をそらすしかないのだろうか。

 

 この先、生きていって幸せになれるのだろうかという思うことがある。絶望するほど先が暗いわけではないが、自分に期待はできない。生きているだけで幸せなんてものも詭弁だと思う。時々たまらなく虚しくなる。”だらだらと惰性で続く物語は美しくない。きっとそれは人生も同じだ”、この言葉が妙にしっくりくる。自分の人生は惰性になっていくような気がしてならない。結局はのらりくらりと生きているのだろうが、自分ですっと終わり方を決めた方が美しいのではないかと時々思う。

 

 1枚目の文章において、挑戦という類の話を少し扱ったが、自分は、人生において何か大きいことはしたいという思いはあまり大きくない。何かを成し遂げようとする人は本当に立派だと思うし、求められれば全力で応援しようと思うが、自分はそれだけの器とエネルギーがない。人と心を通わせ、些細な幸せを丁寧に拾い上げて、平穏に生きていきたい。人に愛されて生きていきたい。人と関わることは明らかに得意じゃないが、人こそが生きていける原点だと思ってる。1人で行きていくのは楽だと思う。傷つくことも疲れることもない。だが、いつか絶対にさみしさに押しつぶされる気がする。高校生の時に気づいたが、何かに挑戦する達成感も捨てがたいが、本当に価値があるのは、この人と一緒にやれて良かったという思い出が残ること、繋がりが持てることだと思う。それに、なんなら初めてできた彼女と一緒にいる時間の方が楽しかった。結局、全ての活動は、仲良くなるための手段だったと思う。保守よりは改革を望むし、経験上大体のタスクはこなせるが、明らかにエネルギーがなくなったのと、価値観の比重が変わったように感じる。高校時代、あらゆる手段を尽くし限界までできることをしようと、十近くの新しい取り組みを行い、限界まで頑張っていたが、今じゃその規模で動けない気がする。時には、生徒会の顧問のいうことに納得できず、校長に直相談したことさえもあった。色々なことを改善したくて、SNSでも賛否あるところ含め意見を述べていたので、時折20人ほどに叩かれ軽く炎上していたが、今ならもうそんな疲れることもしないと思う。それに、自分が先頭になって、人を巻き込んで、進んでいくのは、高校レベルのことでも、あまりに向いてなかった。自分がやりたいことに、他人を巻き込んでいくのが、特にそれが大学受験期の高校3年生の時のことだけあって、本当にそれがその人にとって良いのか、嫌な思いをしていないか、自信を持てなかった。自分が大変な分にはどうだっていいが、他人に関しては、そのようなわけにはいかない。揶揄しているわけではなく、起業しようと、人の人生を一緒にかけられるひとは、そこまでの自信や覚悟、責任を持てるのは本当にすごいと思う。自分のことはすべて自己責任で決めるべきだとは思っている。自分が誘われる側だった時に、後悔することがあっても、誘った人が悪いなんては決して思わない。ただ、自分は、性格上、それでよかったのかが異常に気になった。時間は絶対に戻らないし、同じ時間は人生で一度きりしかない、でも、結局は割り切るしかなく、血反吐を吐いてでも歩を進める状態でやりきったが、向いてはないと思った。気にしすぎだとは思う。ただ、気にしすぎというのは、頭に浮かんで気になった時点で負けなので、自分ではどうすることもできない。そんなわけで、人と心を通わせ、些細な幸せを丁寧に拾い上げて、平穏に生きていくこと、そんな人生の方を望んでいる。そんな軸を大切にしつつ、世の中でいい感じに面白いもの、楽しいことを作る人になりたい。

 

 個人的に、仕事はイベント関係が興味がある。これは大きいことがしたいというより、イベントそのものの形が好きだからだ。イベントごとにおいて、本番の時間よりも準備の時間の方が圧倒的に多い。自分の高校の学校祭を手に取ると、4日間の祭典のために、委員長クラスは1年前から動き出し、半年前に部署体制が整い準備が始まる、2か月前には全校が動き始める。たった4日間のために。また、自分の学校では、1,2年生はマスゲーム(集団演舞)を、3年生は劇を行う。前者は5分間、後者は45分間。どちらも、優勝しない限り、披露できるのは1回だけだ。”たった5分や45分に一夏をかけるのは、とても効率の悪いことだし、バカなことかもしれない。それでも私は無駄だとは思わない。”、先輩が話していた言葉がとても印象に残っている。大人の世界でも、例えば、日本最大級のフェスROCK IN JAPAN FESTIVALでは、自分の知る限りでも、1年以上前から準備が始まり、数か月前には、会場図面は完成に近い形になっている。実際の設営に関しても、5日間のイベントのために、10日近くの設営期間がある。本気で最高のものを作ろうと、全ては本番のために努力が注ぎ込まれ、そうして迎える本番は、結晶のような輝きがあると思っている。鉛筆の芯の黒鉛のもとである炭素は、結晶になるとダイヤモンドになる。あの輝きを作るために、多くの人の泥臭い努力がある。そんなものを、作る一人になりたいという思いがある。(ただ、学部を生かしたデータサイエンスも興味がある)

 

 一つ目の文章と、二つ目の文章で矛盾することがあったとしたら、それは恐らく理想と現実です。一つ目の文章と、二つ目の文章で文体を変えましたが、内容的に逆にするべきだった気がしてならないです。この文章を読んで納得感があれば、恐らく自分と同じ種類の人間です。数日かけてちまちま書いているので、全く病んでいるわけではないので、心配の類は無用です。また、これは誰かに言いたいことではなく、独り言です。なので、軽い気持ちで読んでください。恥ずかしい話か続いたので、一旦の最後として、次は、行って良かった旅行先を紹介します。