1994年4月、永島雪夫は尾崎豊の死の疑惑を夕刊フジ、週刊宝石で追及しました。そしてテレビ朝日と連携し取材を進めたところ、夫人がある人物に「謀殺」を「依頼」していた事実をつかみ、依頼された人物のインタビューに成功しました。テレビ朝日はこの重要な証言を放送すべく準備していたまさにその時、奇怪なことが起きました。 

夫人が週刊文春で突然「自殺説」を展開しはじめたのです。その根拠は尾崎が持ち歩いていたセカンドバックに「遺書」があったから、尾崎は「自殺」したのだと言い出したのです。

だが、尾崎が持ち歩いていたセカンドバックに「遺書」はありませんでした。千住警察署では尾崎を保護した時点で所持品のセカンドバックはもちろん現場にあったすべてを写真に撮り詳細に記録していました。ありもしない「遺書」は当然ながら千住警察署によって真っ向から否定されてしまいました。 

幻の「遺書」を持ち出したためにあらたな疑惑をかけられ追いつめられた夫人がとった行動は、永島個人とテレビ朝日への提訴でした。

提訴が行われるまでの不自然な経過でも分かるように裁判そのものは重大証言の放送を阻止するためのものでした。それは一審の裁判官が「和解しろ、和解すれば金は払わなくてもいいようにする」と和解仲裁を5回に及んで行ったことにも提訴の意味が現れています。

テレビ朝日は一審判決後、和解しましたが、永島は事実関係が審理されていないことを不服として高裁に上告しました。

高裁判決では一審で否定された取材、覚醒剤の量、死因の3点についてはじめて認めました。尾崎の死因には多量の覚醒剤が絡んでいたこと、そして尾崎の死因は不思議で疑惑があると認定し、取材も相当に行ったことを認めたのです。

しかしながら、ここでも重要な事実審理は行われることはありませんでした。死の疑惑の最大のポイントとなる白髭橋病院の医師の言動は、尾崎の状態を知る上で極めて重要なものです。しかし、裁判官は最後まで医師の証人尋問を拒否し続けたのです。これでは事実が明らかになるはずもありません。裁判官は我々が提出した医師のインタビュー記事の一部だけ、つまり危険ではないような部分のみを取り上げ、危険な状態を否定したのです。こうして永島の敗訴となりました。

永島は当然ながら高裁判決(2審判決)を不服とし、最高裁に上告しました。しかし、残念ながら2002年2月8日、上告棄却が決定してしまいました。これにより2審判決が確定したのであります。

この裁判は1994年9月に提訴され、1994年11月7日の初公判以来、約8年に及んで行われました。永島は8年間、裁判を抱える生活を送ってきたわけです。裁判そのものの負担は非常に重たいものでした。しかし最後まで戦えたことは多くの方の支援(カンパを含む)によるものでした。

裁判そのものは「名誉毀損」とはいうものの実体は損害賠償請求事件です。この記事で傷ついたから公に謝罪しろ、慰謝料を払えというものです。

裁判は敗訴となりましたが、8年間の戦いが無駄であったとは思っておりません。まず第一に、一審の裁判では裁判官との熾烈な交渉の結果、疑惑の夫人の証人尋問を実現し、矛盾だらけの証言を引き出し記録に残したことです。そして第二に、控訴によって一審の判決理由を部分的ながら否定させたことです。

そして尾崎の死因に疑惑があるということはこの高裁判決でようやく認定されたわけです。高裁の裁判官が尾崎の死因について「原因は不明であり、さまざまな疑問が残る」と認定したことは8年に及んだ戦いの唯一の成果となりました(注:なお「自殺」については千住警察署によって完全否定されています。自殺説の根拠となった「遺書」は尾崎が当日持っていたセカンドバックに入っていたと主張したのですが、千住警察署で確認したところ証拠保全した中に「遺書」はありませんでした。)。

ただ、8年間の裁判でもっとも重要な白髭橋病院での出来事の審理が行われなかったことは真に残念であり無念です。白髭橋の医師の証人尋問が行われれば、判決は大きく変わっただろうと未だに口惜しい思いです。

※ 昔発行されたのが、「覚醒剤偽装殺人」(1995年)で、それに「裁判で出てきた新たな証言、夫人の尋問証言や司法解剖医の陳述書など事件を知る上で重要な証言を取り入れた最終版」が最近発行された「血の叫び」(2013年)です。