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これは、「箱根土地(のちの国土計画、現在の西武ホールディングスの一部)」が分譲した「麻布本村町分譲地」の案内の写真です。

私の住んでいた家の真裏にありました。

ここは傾斜地で、坂になっていたのですが、なぜか長い、立派な坂なのに名前がありませんでした。

私は坂の名前は地域住民が長いこと呼んでいた複数の坂名の中から、磨かれ、選ばれた物が残っていると信じているので、「けやき坂」とか「さくら坂」のように企業が主導して付けた名前は、もしかして区が主導して付けたのかも知れませんが、あまり感心しません。

不遜だと思います。

「麻布通り」という名前もそうですね、あれはいけません。

江戸時代の初期まで、麻布通りの北部は「飯倉」、南部は「三田」だったんですから。

「高輪ゲートウェイ」という駅名のほうが歴史的事実に照らして、実に潔いです。

という訳で、あの坂に名前がないのは、そういう歴史があるからなのでした。

だけど、私は子供の頃にこの坂を「名無し坂」と名付けました。

並行する小坂は「名無し小坂」と呼んでました。

不遜な子供です(笑)

しばらく近所の子供がそう呼んでましたが、定着せずにすぐに廃れました。

その後は「若松坂」とか、「若松保育園の下の坂」などと呼ばれていましたが、今も名無しです。

正式には「無銘」とか「無銘坂」と言うのですがね。

だいぶ昔に若松保育園もなくなり、今は若松寺だけになりました。

この若松寺もそんなに歴史がある訳じゃないので、坂名にはならないのでしょう。

やはり地域住民としては、ちょっと不便でしょうね。




この分譲地は、大半が後藤新平の所有地を買収して、造成されたものです。

正力松太郎の自伝によると、この頃、後藤新平は正力松太郎に読売新聞を買収するお金を十万円だったか貸しているので、ここの土地を担保にしたか、売却したお金で都合を付けたとも言えるでしょう。

ということは読売ジャイアンツ発祥の地とも言える訳です(笑)


後藤新平は、桜田町にも屋敷を持っていました。

あちらも確か、箱根土地の分譲地になっているような気がします。

一部は中国大使館になっているのかな??


当時は貧富の差が激しくて、庶民は家も土地も買えなかったから、ここは当時の中流階級向けの分譲地だと思います。

傾斜地だから雛壇になってます。

今も、一部、壇になった大谷石を見ることができます。

ちょうど、隣りの仙台坂分譲地(松方家の所有地)を三井信託が売り出していたので、隣同士で競争になっていたようです。


ここには同級生や先輩、後輩の家がいくつかありました。

友達の家はバブルの時に、ここを売ったのですが、下世話な話、相当な値段だったんじゃないでしょうか。

今なら、もっと大変な値段です。

うちの先祖は貧乏だったので、借家です。

もし、先祖が明治時代の初めの安い時に土地を買っていたら、私は今頃大金持ちでしょうね(笑)


麻布には、「箱根土地」の分譲地が結構あります。

ほかの会社の分譲地も結構あります。

だから、麻布の古い人は、この頃(震災後から昭和初期)に越してきた家の人が多いです。