私は、古いものが捨てられません。

一つ一つに思い入れがあり、捨てなければよかったと後悔したくないのです。



例えば、この歴代ガラケーたち。


周りがどんどん機種変している中、変えたくなくて、いつもギリギリまで使っていました。スマホに変えたのも、友人が3代目のスマホを使っている頃。1台を長く使う私は、それぞれに思い出があり、これらは捨てられません。(左の3つは、充電できてもデータは飛んでしまっています…さすがに捨て時でしょうか…)


その昔は、人とのやり取りは「手紙」でした。手紙は紙で残り、それを手元に残しておけば、いつでも読み返すことができます。昔の手紙、捨てられません。


携帯が出てきてからは「メール」に。昔のやり取りを見たくなると、データ移行をしていないので、わざわざ古い携帯を充電して、読み返すのです。結局、私は振り返りが好きなのです。



ここからが本題


5年前に大切な高校時代の友人が、亡くなりました。

この度、コロナ禍でずっとできなかった、彼女を偲ぶ会が催されると、お知らせが来ました。

もう5年…そんなに経つのだと、驚きです。


私と彼女は、高校を卒業してからずっと交流があり、何人かのメンバーで定期的に会っていました。この度、彼女を偲ぶ会が催される事をきっかけに、古いメールを溯ってみようと思いました。ガラケーを充電。データは生きていました。彼女とのメールを遡っていくとある時から、「会おう」と誘ってもお断りのメールばかりになっていることに気付きました。お断りメールは、後に聞いた彼女の病気が発覚した時期と重なります。彼女なりに、病気を知られたくなかったと察します。


暫く会っていないから、会いたいと誘っても理由もなく「会えない」と、そっけない返信。仲間内では、仕事が忙しいのかなぐらいで、深くは考えませんでした。


でしたので、5年前の訃報は、突然過ぎました。一目会いたいと、思ってくれなかったのでしょうか。悲しすぎます。時間があまりないことを分かっていて、だから会ってくれなかったの?その立場にならなければ分からないことなのかもしれませんが、私だったら、大切な人とは会っておきたいと思うのですが…。


弱っている彼女を知らないので、いまだに彼女が亡くなったことが信じられません。明るい笑顔の彼女しか思い出の中にはないのです。5年経っても彼女がいなくなってしまったという喪失感が、全くないのです。彼女はきっとそれを望んでいたのでしょう。


来月行われる、偲ぶ会。

コロナ禍で暫く行われていなかった仲間内での久しぶりの集まり。彼女が引き合わせてくれた気がします。


悲しさなく、みんなで思い出を語り合いたいと思います。そこに彼女が存在しているかのように。