感覚は人それぞれ。 | アザノカタリズム

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色んなことを勝手気ままにダラダラ語ります。

社会にある宗教問題として某教会のニュースで世間が騒がしかったことは

記憶に新しい。

 

そんな社会問題を取り上げた【星の子】という芦田愛菜ちゃん主演の映画を

アマプラで見たんだけど、とてもうまく描かれていて考えさせられる作品だった。

 

宗教云々はさておき、

信仰、未知なるもの、実体のないもの、測定できない力、運命、陰謀論・・・

 

人は「何を信じるか」を自分で選択できる。

 

正解か否か、真実か偽りかを判断するのは一体誰なのか。

それは己でしかない。

 

科学的に全て証明できるのかといったら、

現段階では明らかにできないから非科学的で偽りだということも

技術の進化により可能になればそれがいつかは科学的に認められる日が訪れるかもしれない。

 

そうなれば、その判断もまたまちまちであって絶対ではない。

でもそれを基準とする人にとっては現段階でもその結果が正解となる。

 

結果そうなった、という既成事実があっても、

そう至ったまでの経緯が到底説明のつかにことが要因であったとして

それを受け入れない人もいれば、

事実をみて経緯にも信憑性があると判断する人もいるかもしれない。

 

つまりはその人その人の価値観や感覚という

基準もあやふやで、個人差がでるものであるならば

人が「何を信じるか」は自分で選択しているに過ぎない、という考えに尽きる。

 

だから、

他人が信じているものを共感したり認めないといけないわけではないし、

否定していいものでもない。

 

そう思って色んな人の話を聞くようにはしている。

 

自分に理解できないことを安易に間違いだとか悪だとか判断してしまう考えは

進化の妨げになる恐れがある。

 

かといって、自分の考えでは受け入れ難いことを

無理矢理理解しようとか受け入れる必要もなくて、

 

「そういうことを信じる人もいる」

という事実だけを受け止めればいいかなと。

 


視力関係なく、視える人と視えない人がいる。

視えない自分の中で昔から、視える人の話を聞いたらこう思うことがある。

 

脳の使われていない部分が多く稼働している人には

もしかした視えているのかもしれない。

 

だって、人間の脳って稼働している割合ってごく一部で

ほとんどが使われていないらしい。

なら、その部分が稼働している人に起こる体の作用って

稼働していない人と違っててもおかしくないし。

 

第六感とかいう感覚も、そういった個体差が関係しているなら

ありえる。

 

そんな風に考える。

 

こういう考え方は、これからの世の中には必要なんじゃないかなと思う。

自分とは違う、という理由だけで否定しない。

 

真実かどうかジャッジすることなんて本来、誰にもできないんだよね。

それは何をもって「真実」とするか・・・という点から考えるとね。

 

 

「何を信じるか」を自分で選択できる、なんて平和な証拠なんだけどね。