やっつけ仕事のようにバタバタと紹介してきた
八丈島ネタも、今回でラストです(^^)
てなわけで、最後は八丈の歴史にふれてみたいと思います。
(写真がないのを誤魔化してるわけではない!)
八丈島は黒潮の影響を受け、日本のみならず台湾・中国の船も
漂流の後、何隻も漂着した島だと伝えられています。
長い間船に揺られ、たどり着いたパラダイス。
命拾いした人々は、助け合い、尊重しあって生きることを重要と考え、
穏やかな気性を身に付けます。
やがて時は流れ、島の所在が明らかになると、最果ての地として
流刑地の一つに数えられることとなります。
ところが…
そこにあったのは暖かな気候と、暖かな島民。
歴史上の流刑地の中で、唯一、刑罰とは思えないほどの待遇を受ける
ことができる島だったのです。
金鉱の強制労働をさせられる佐渡島が『生き地獄』と称されていたのに
対し、八丈では小さな家をあてがわれ、自由な生活ができたといいます。
島民は罪人だということで差別することもなく暖かく迎え入れ、
罪人であるにもかかわらず、やがては島の娘と結婚し、のんびりとした
生活を送ったという場所。
「八丈は第二の故郷」という者も少なくなかったそうです。
豊臣秀吉の五大老の一人、宇喜多秀家も八丈に流され、明治の時代まで
赦免になることはなかったそうですが、島の人々は最後まで暖かく彼と
その一族を守り続けました。
関ヶ原の戦いのあと、生き別れになってしまった彼の妻・豪姫と秀家を、
せめてあの世では一緒にさせてやろうと建立した夫婦像が、島民の心を
象徴するかのように、ひっそりと海辺に建っています。
こんな事からも、流罪になったはずのこの島での生活が、
実は彼にとって一番幸せな隠居生活だったと思えるのです。
また、古い伝説では秦の始皇帝の命を受けた除福が、不老長寿の
薬草を求めて、五穀百工と三千人の童男童女を乗せた大船団で
渡ってきたと伝えられています。
そのうち童女五百人を乗せた船が八丈島に、童男五百人を乗せた船が
八丈の南方70Kmにある青ヶ島にたどり着きました。
南風が吹く頃になると、青ヶ島で成長した男衆が八丈に渡ってくる。
八丈の女達は紅鼻緒の草履を編んで海岸に並べます。
そして、自分の編んだ草履を履いた男と、一夏の契りを結んだという
ほろ苦いロマンスが残っています。
~南風だよ、みな出ておじゃれ。迎え草履の紅鼻緒。~
今なお島唄として残る歌詞にある通り、ここでは男女は「紅い糸」ではなく
「紅い鼻緒」で結ばれていたのかもしれません。
家の守り神とされている「ヤモリ(家守)」も、この島では珍しくありません。
ホテルのロビーにも居ました。
写真だと大きく感じますが、実際は体長5cmほど
びっくりしてホテルの方に尋ねると
「珍しいですか?このあたりにはいっぱい居ますよ。」との返事。
大事にされているのか、かなり近くまでカメラを近付けても逃げず
のんきな様子が印象的でした。
自然を愛し、神に畏怖の念を抱き、敬い、島を血で汚すことなく
静かに歴史を築いてきた島の人々…
スロー・アイランド・八丈島
悠久の歴史の中でひっそりと息づいてきたこの島には
今日もゆっくりとした時間が流れているのでしょう。

