舞台『No.9 ー不滅の旋律ー』。
演出・白井晃、脚本・中島かずき、音楽監督・三宅純。
「ジャンヌ・ダルク」のクリエーターが、稲垣吾郎と大島優子を迎え、ベートーヴェンの狂気と運命と歓喜の半生を舞台化。
これまで様々なメディアで観できたなかでも、最低最悪なベートーヴェンだった。
傲慢で尊大で冷酷で非情。自分には神経質で、他人には無神経な傍若無人ぶり。
音が聞こえない耳ではなく、人の声を聞こうとしない耳を持っていた。
幼少時に父親から受けた暴力で難聴になったが、今度は自分が他人に暴言を吐き、弟達を管理し、嫌がる甥にピアノを弾かせ暴力を振るう。父親そっくりの狂者になってしまう。
平民ゆえの差別も受けたが、自分が金と名誉を手にすると、途端に教養がない金がないと他人を罵り、気に食わないと追い出す始末。
権力者に媚びへつらうことはしない代わり、権威や金をタテにとって保身を図る小心者。
こんなに嫌な主人公だと、作品や舞台そのものも退屈になり疲れてしまう。
名曲を生み出すのにさぞや苦しみや大変さがあるのかと思いきや、唐突に曲が出来上がっていて、神が憑依した如く、ベートーヴェンの天才性を強調する。
まるで曲をどんどん作り出す、作曲マシーンのような存在。
メトロノームや補聴器さえ、彼の部品の一部にすぎないのだ。彼が機械だと思えば腹は立たないか。
これは音楽×人間×機械の融合の話だろう。
だが、聴力の全てを喪って、あらゆるしがらみから解放された時、彼は人の声や喝采が耳に届き出し、共鳴できるようになる。
機械だったベートーヴェンが故障した時、ようやく人間の思いや魂に触れて、人間として目覚め再生する話だったのだ。
稲垣吾郎は粘着質ある芝居に凄みを利かせて、ベートーヴェンをいっそう憎たらしい悪役ヒーローに仕立て上げる。
大島優子は人間臭い少女から、ベートーヴェンの秘書として関わる中で、アンドロイドのような無機質な女へと鮮やかに変貌。明瞭快活な台詞回しがイイ。
マイコが自立した強いナネッテを、高岡早紀が保身のヨゼフィーネを好演、大島優子のマリアと共に、3人の女性の生き様を見せる。
実利の発明家ヨハンの片桐仁が、人間味豊かなムードメーカーぶりを発揮して笑いと癒し。
加藤和樹のニコラウスは常識人として手堅い演技。その兄・カスパールの施鐘泰(JONTE)が哀愁も漂わせて深味。
深水元基のフリッツが時代の中で変貌を遂げて面白いが、ラストの扱いはイマイチ。
長谷川初範は前半で胡散臭さを匂わせ、田山涼成は後半で度量の大きさを感じさせる。
3台のピアノによるナマ演奏が贅沢で、音楽を立体的にリアルに拡散。
コーラス隊の合唱も美しく、年末を思い出させる迫力。
ナポレオン失脚後の混沌とした時代。金や権力がいっそうモノを言い、芸術も親子関係も屈服させられそうになる。
だが人々の掲げる声は、ひとりひとりの心に宿り、ずっとずっと続いていくのだ。後世に。普遍的に。
そのことに気付いたベートーヴェンは、ようやく人間の永遠、音楽の永遠を知ったのだ。
人間・ベートーヴェンの誕生。
まさに「歓喜の歌」が相応しい幕切れ。
コーラス隊と一緒に、つい私も口ずさみそうになる。
カテコで、他のキャストも楽譜を見ながら歌っていた。和樹は楽譜は手にとらず、諳んじて歌っていた。私も一緒に唇を動かしていた。
「歓喜の歌」は聞くよりも、一緒に歌うのが心地よい。
お花スタンド。
『嵐が丘』も懐かしい。

















