片付けが大好きな母だったが、それでもたくさんの物を置いたまま旅立ってしまった。
だらしない私に片づけを託すなんて、ママらしくないな~とぶつぶつ言いながら、「無理はしない」と言い聞かせ、少しずつ気が向いた時に整理をしている。
思い出深い品々の整理は、感情が疲れて長い時間浸ることができない。
引き出し一つをいじり始めて、結局何の整理もできず、そのまままた閉めるということを何度やったか分からない。
ある日、思い切って母の洋服を数枚整理したら、母との距離が薄皮一枚くらい近くなることに気づいた。
それは不思議な感覚だが、母と私の間に挟まっている
多種多様な物質が減ることによって、魂の距離が近くなる、
そんな感じだ。
それを感じられるようになって、物質の整理は今までよりはかどるようになった。
母のちょっとした大切な物が入っている箱がある。
ずっとそのままにしておいたが、母との距離が縮まり、これを
開けることがそろそろ許されているような気がして開けてみた。
祖母や叔母たちが送った古い手紙、私がアメリカから書き
送った手紙などが入っている。
その一番底に、父の大学の成績証明書が入っていた。
開いてみると、その間に一通の手紙が挟まっていて、父の特徴のある字が並んでいる。
父が母に当てたラブレターだ。
父は文才があった。
色々な場面でスピーチをする機会もあったようだが、結構
ユーモアーたっぷりに場を盛り上げることができる人だった。
読書家でもあり、気になる言葉を手帳に書き留めたりしていた。
そんな父が母に当てたラブレターは、哲学的でどこか詩的な、ヘルマンヘッセの世界感を思い出させるような、文面だった。
色々な事情で共に生きることが難しい事は重々理解するけれど、それでも一緒に人生を歩みたいという気持ちが溢れていた。
15歳くらいで知り合った二人の結婚に至るいきさつの詳細は知らないが、母は父が送ったこのラブレターに込められた父の思いを生涯大切にして、たくさんの困難を乗り越えて生きたのだと納得した。
「母は幸せだったのだろうか?」それは私の心のどこかにずっと潜んでいた翳りだった。
姉はともかくとして、私は格別できの悪い子供だった。
親として私を誇れることは、何一つなかったに違いない。
父はいつでも忙しく、父なりに愛情を注いでいたが、父が会社の代表を務めるようになったころからは、夫婦で何かを楽しむということは、ほとんどなかったように思う。
家族がなければ、母はもっと自由に自分の人生を生きたのではないだろうか?
父と結婚しなければ、一人東京で孤軍奮闘することなく、祖母や叔母たちが暮らす新潟で、華やかに美しく、ダンスを踊り、
お茶稽古にいそしみ、放送劇団で大好きな朗読を楽しみ、時にはモデルの真似事のように新潟日報に登場していたのではないだろうか。
今でこそ新潟と東京はあっという間の移動時間だが、当時はそんなに簡単に行き来出来ない遠く離れた場所だった。
「結婚なんかしなくていいよ、自分の人生を生きなさい。」
と私に言っていた母は、自分の結婚をどこかで後悔していたのではないだろうか。
「色々あったけれど、幸せな人生だったね。楽しかったよ。私の年齢ではあんまり経験できないようなことを、みんなやったからね。」
「そうね、熱烈な恋愛結婚、ずっとキャリアを持って仕事を続け、海外旅行も国内旅行もたくさんして、大企業の社長夫人、会長夫人、お手伝いさんに運転手さん、誰もが羨む人生を生きてきたのよ。 苦労も人一倍あっただろうけれど、いい人生だと言ってもらえると、子供としては救われる。」
母の病室でそんな話をしていたのを思い出す。
それでも私は、どこかで母は何かを後悔しているのではないだろうかと思っていた。
父からの手紙は、母の胸の中にずっと輝く勲章だった。
母は後悔はしていなかった。
私はそう思えたことで、また母との距離が縮まるのを感じた。