先日、俺は失業した。特定非営利活動法人の役職を降りた。というより、その会事体が閉会することになった。失業といっても、収入にはかかわりはない。もともと無報酬。経費の一部は会の予算から出る。一年365日。その内150日以上はその仕事に費やした。直接、その仕事に関わらない時も、何がしか、その仕事について考えている。次から次に発生する問題。到達したい目標とかけ離れた現実。世の中には仕事がたくさんあって、職業として成り立つかどうか微妙な境界線がある。少なくとも、俺はそう感じた。それは他人が決めることで、自分では如何ともしがたい。確かにこの8年に及ぶ仕事は、俺にとって職業そのものだった。仕事とは、報酬があって、それに伴う税無申告がセットになっている。だが、世の中では、報酬の伴わない仕事は、職業とは見なされない。年々落ち込む年収と所得は税務署の目にも止まる。これにはちょっとした事情も絡んでいるが、俺にとってかけがえのない仕事は、世の中に認められそうもないことだけはハッキリした。批判の対象であり、責任ある大人の取るべき道ではないような謂れ方をされる。その声は最初から聞こえていた。しかし、聞こえぬ振りをしてきた。人は、いつか、自分の過去の重荷を解き放ちたいと思って生きている。自分の過去は生まれてから後のことではなく、親や祖父母の人生の一部でもあり、あるいはもっと別の人生の一部かも知れない。人のために生きることは、国や社会の枠組みの前に尊重されるべきもの。俺はそれを信じている。歴史はほんの数年前の出来事も歪めてしまう。リアルタイムに起っていることも、必ずしも正確に伝わる訳ではない。まして、遠い出来事。だが、確かにその中に俺自身が居り、俺の知り合いや仲間がいる。熱帯の山村の奥深く、過去の歴史を詳らかにする老人が居り、俺を待ち構えていたかのように話を切り出す。俺の先祖が何がしかの役割を演じ、時空を越えた砲弾がとある家族を皆殺しにしたかも知れない。あるいは、その場でなす術もなく、人々の苦しむ様を観て見ぬ振りをしたかも知れない。数十万の人が死ねば、その一人一人に関わった過去の重荷の消息がある。かの国では、その後膨大な熱帯林が消失した。ホワイトラワン。樹齢300年以上の巨木を狙い打ちにする。20年もかからず、かの国の自然林は80%喪失。この事業は日本の一流企業と呼ばれる商社のドル箱になった。確かに日本の経済を支えた。俺の知り合いにも、その頃、この事業に関わった人間が大勢いる。だが、世界は今、独楽が回転数を落とした時のように、不意によろめく。よろめいているのに、さも順調に回転しているような素振りをする。責任ある職業、社会の中で押しも押されぬ一流企業が倒産する。税源が消え、それ以前に帳簿に記された何兆もの資産が消える。どんな仕事でも、最初は本当に人のためになるかどうは分らない。最期まで答えが見えないことのほうが多い。知恵と勇気が試される。何枚も自分の皮膚を剥ぎ取られるような体験をする。脳みそが汗をかくような思いで、その瞬間を生きている。先日、俺は特定非営利活動法人の役職を降りた。しかし、現場は動いている。この国で、社会の一部で機能するギリギリまで落ち込んだ俺だが、その一方、8年間かよった現場にも責任がある。今なら、全てを投出すいいチャンス。だが、どちらの責任もないがしろにはできない。俺に迷いはない。会が閉会に向う過程、過去2年、自腹で活動して来た。現場に行くには海を渡らなければならない。どんなに節約しても20万円はかかる。日本から西南へ3000キロ。熱帯の山村。