もしも、こんな親でなかったら・・

愛ある親だったら・・

私の人生、もっと幸せだったはず

そんな事を考えながら生きている人は、おそらく

沢山いる。

もしも、母が生きていたら・・

生きてさえいてくれたら・・

母もそう思いながら、人生の多くの時間を過ごしたのかもしれない。

連鎖と言う言葉がある

私は母親のようになりたくない・・そう思った。

 

子供の頃から

友達と遊ぶ事にも

勉強にも

スポーツにも

興味がなかった

 

帰る家が今日、穏やかであります様に

ただ、それだけを願い帰宅する我が家

「なぜ・・こういう家なのかなあ」と

思う毎日

 

 

母は私が小学一年生の時、自ら命を絶とうとし、片脚を切断。義足となった。父の両親、私の祖父母が母との同居を受け容れなかったので、母はその後。3年間、精神科に入院することになる。

その3年間は離婚をめぐり、家庭裁判所での調停を行っていた。ざっくりした状況しかわからないが、慰謝料を(保険で出たお金は父が使ってしまったらしい)払えない父、祖父母は結果的に母を受け容れ、母は自宅に帰ってきた。私が小学四年生の時だった。

タバコを吸う母の姿が嫌だった

青いアイシャドウ付ける母が嫌だった

母と二人になるのが嫌だった

 

 

 

父にも離婚を切り出され

祖父母にも離婚を言い渡され

どんな気持ちで自宅に戻ったのだろうか??

そのうえ、我が娘に拒絶される母親

 

 

 

「お母さん」

母の事を、なんのこだわりもなく呼んだことは

一度もない

 

どうか、私がもつ家庭は暖かいものであります様に

 

 

子どもの可能性は無限大にある

勿論、どんな家庭に育ったとしても

その可能性を最大限に発揮できる子供もいることでしょう

 

 

枯渇した心では将来の夢などもてないのです

 

 

 

子どもは母親を受け容れられない現実を抱えながらも

母親の幸せを願うものです

それは

母親が幸せであれば

子どもである自分自身も幸せであることを

知っているからです。

 

 

 

 

「おかあさん」そう呼ぶことが出来なかった

最大の理由は

母が人生を悔やんでいたから

母が幸せでなかったから

 

 

多くのお母さんに幸せでいて欲しいのは

そこにいる

子ども達の

無限大の可能性をつぶして欲しくないからですラブ