終戦から70年になります。

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に降伏し戦争は終わりました。

欧米の白人からアジアを開放するという大義名分の戦争でしたが、実際はそうではなかった面も多々あります。

タイ王国を除く東南アジア地域は欧米の植民地でした。

ベトナム・ラオス・カンボジアはフランスの植民地、ビルマ(ミャンマー)・インド・マレーシアはイギリスの支配下に、インドネシアはオランダに長い間支配されていました。

これらの地域で日本は連合軍と戦い、終戦後も残留兵が現地の人といっしょに独立のため戦いました。

アメリカの植民地であったフィリピンでも同じでした。

フィリピンは1571年から1898年までスペインの統治下にありました。その後、アメリカがスペインとの戦争に勝利したため、アメリカの支配下に入ります。1942年には日本が全土を占領します。日本の傀儡政権ではありましたが、フィリピン第2共和国が成立します。

日本が敗戦すると再びアメリカの植民地に戻りますが、翌年にはフィリピン第3共和国として独立を果たします。

フィリピンの第6代大統領であるエルピディオ・キリノは夫婦で日本の着物を着るなど戦前はとても親日家でした。しかし、大好きな日本軍に自分の妻と子供を殺されてしまったのです。



第二次大戦末期のフィリピン、ルソン島バタンガスでは日本軍により実に1万3千人ものフィリピン人の住民が虐殺されました。また、マニラ市街戦では、マニラは文字通り灰燼に帰し、市民約10万人が犠牲となりました。その中にはキリノ大統領の妻と子供たちも含まれていた。

1945年2月9日午後、キリノ邸が米軍の砲撃で一部破壊されたために、妻のアリシアが長女ノルマ、長男トマスらと一緒に近くにあった実家(アリシアの母親らが住むシキア家)に避難しようとしたところ、実家の向かいにあった日本軍の防衛拠点にいた狙撃兵に銃撃され、アリシアとノルマは即死、アリシアが抱いていた当時2歳の娘フェが地面に投げ出されました。フェはしばらく泣いていたが、近づいてきた日本兵の手で刺殺されてしまいます。

キリノはフィリピン独立後の1949年大統領に就任します。キリノは対日感情が依然厳しい中で、死刑囚を含む日本人戦犯105人の恩赦に踏み切りました。自らも日本兵によって愛する妻子を奪われたのに何故?

実弟のアントニオが恩赦を出すよう説得したようです。当時、日本との賠償交渉が行き詰まっていたことに加え、キリノ大統領が戦犯を利用して金儲けしているといううわさが流れたこともあり、弟のアントニオは「カトリック教徒として相手を赦すべきだ」「助けられた日本は恩義を感じてフィリピンを支援するのではないか」などと、恩赦の決断を促したらしいのです。

1951年、フィリピンの モンテンルパ収容所には多くの日本人捕虜がいました 。戦犯は次々と処刑されました 。その中の1人に 憲兵として、フィリピンに赴任し 戦犯として収容所に抑留された代田銀太郎が いました。 代田は日本には 帰れない想いを詩に書きました。その詩に元陸軍大尉の 伊藤正康が オルガンで曲をつけ「ああモンテンルパの夜は更けて」が完成しました。

1952年、 当時の人気歌手渡辺はま子宛にモンテンルパ収容所から手紙と楽譜を送り、「この歌をあなたに歌ってもらえるなら思い残すことはない」と書きました。渡辺はま子はその声に応えレコーディングをしました 。 レコードが発売されると、歌は大ヒットし、全国で助命嘆願の署名が集まりました。



助命嘆願の署名が集まっていることはキリノ大統領の耳にも入っていたのですが、 日本人によって家族を殺された憎しみとの間で揺れ動いていました 。そこへ、キリノ大統領宛にオルゴールが届きました。送り主は渡辺はま子。キリノ大統領はそのオルゴールの悲しげなメロディが、 望郷への思いを歌にしたもの だと知り、 収容所にいる日本人戦犯を、全員釈放することを決めたのです。

キリノ大統領はこう述べています。

『私はこれまで、日本人戦犯に対する恩赦の請願を種々の形で熱烈に受けてきましたが、最後の最後まで許すことが出来ませんでした。なぜなら私は妻と3人の子供及び5人の家族を日本人に殺されたからです。しかし、もし私がこの個人的な怨みをいつまでも持ち続けるなら、私の子供たちも、次々と永遠に持ち続けることになるでしょう。将来、フィリピンと隣り合わせの位置にある日本との関係は,あらゆる点において親しく助け合って共存共栄の実を挙げなければなりません。そのためには私恨を断ち切らなければならないと決心したのです。』

『私たちは、憎しみや恨みの気持ちを永遠に持ち続けるわけにはいかない。もし、ゆるすことができなければ、穏やかな人生が訪れることはないのだ。我々はゆるすことを学ばなければならない。それだけだ。』


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%83%8E


日本とフィリピンの国交が正常化したのは1956年5月、キリノ大統領死去の約2カ月後でした。日本は1976年までに、フィリピンに対して1902億300万の賠償金を支払っているほか、戦後補償の意味合いも込めた日本からフィリピンへの援助供与が積極的に行われるようになり、以後フィリピンにとって日本は最大の援助供与国となっています。

80年代には多くのフィリピン人の間で第二次世界大戦の記憶は薄れ、あるいは忘れられつつあり、彼らにとって日本は開発援助・貿易・投資・観光の資金源でしかなく、そのため両国間の外交摩擦はほとんど見られなくなりました。

1986年故コラソン・アキノ大統領(現大統領の母)は戦争に対する謝罪を望んでいた昭和天皇と日本で面会します。

90年代には両国の関係は良好なものでした。

現在フィリピンにとって日本は最大の輸出相手国、輸入相手国となっています。

憎むことよりも赦すこと。憎しみは連鎖してはいけないことを教えてくれたキリノ大統領、偉大です。