◎以前から気になっていた愛知県豊川市にある「豊川海軍工廠平和公園」へ行ってきました。
昭和14年に海軍が装備する機銃や弾丸、光学機器の主力生産工場として「東洋一の兵器工場」と称された「豊川海軍工廠」が今の愛知県豊川市に開庁されました。
しかし戦局の悪化に伴って米軍の攻撃が激化し、終戦直前の1945年8月7日にグアム島、テニアン島、サイパン島より飛び立った爆撃機B29計124機+護衛のP51戦闘機48機が豊川海軍工廠を襲いました。
B-29は500ポンド爆弾・3.256発(813トン)を投下、P-51は工廠へ向かって機銃掃射をし、工廠で働いていた2.500人以上が死亡し、工廠は壊滅しました。
この内で亡くなった447人は勤労動員の中学生と高校生だったそうです。
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
私たちの抱く希望すなわち信仰について、求める人にはいつでも説明できるように備えておくことはとても大切なことです。殊に信仰の故に迫害を受けたり不利な立場に立たされる場合に備え、自分に非のないことを証できるよう、常日頃から裏表のない誠実な生活を心掛ける私たちでありますように。
①「豊川海軍工廠平和公園」平和交流館
ねんどろいどじえいたん: 「今回は愛知県豊川市にある豊川海軍工廠平和公園にやってきました」
「後ろは公園内にある平和交流館で、管理人さんは展示物を見て泣けてきたとか…」
②公園内
ねんどろいどじえいたん: 「今は子供達の元気な声が聞こえてくる平和を伝える公園になっています♪」
「それでは過去の悲劇と展示内容をご覧ください」
③空襲前の昭和19年11月23日に米軍が撮影した豊川海軍工廠
(空中写真に残された戦争と空襲の証言より)
黄色枠が豊川海軍工廠で、空襲の際は主に黄色枠中央から下の工場錬が重点的に爆撃され、青丸の豊川海軍工廠平和公園付近はそれほど爆撃を受けなかったようです。
しかしこれを見て思ったのは、制空権が無くなった時点でもうダメダメですよね💦
④昭和20年8月7日の空襲後の豊川海軍工廠の写真 (豊川市HPより)
もう跡形もありません…
500ポンド爆弾・3.256発の凄まじさを物語っていました。
☆当時の生き残った人が爆撃の様子を伝えるとこんな感じだそうです。
まずB29の低く唸るエンジン音が聞こえてきます。
ウォーン、ウォーーン…
ウォーン、ウォーーン…
ウォーン、ウォーーン…
次に爆弾の落ちてくる音
ザザザザーーーーー!! ザザーー!!! (これが意外でした)
そして爆発音!!
ドカーーーン!!!!!!! ドカン!! ドカーーン!!
なんだそうです。
⑤労働者の防空壕跡
右下は爆撃前の写真で、こうした簡易的な防空壕は直撃弾や至近弾には全く防御能力が無かったそうです💦
因みに幹部職員は鉄筋コンクリート地下室構造だったらしく、工廠長は爆撃前に車で逃げたとか…
⑥今も残る当時の街路灯
ねんどろいどじえいたん: 「当時の街路灯があちこちに残っていますが、傘は無くなって柱だけになっていました。 戦時中は灯火管制で夜は光って無かったそうです」
⑦旧第三信管置場(豊川市指定史跡)
A: 爆発事故が起きた時に周囲へ被害が及ばないよう、建物の周囲が土塁で囲んであります。
B: 豊川海軍工廠の当時の建物で、信管(弾丸の起爆装置)を保管していたそうです。
C: 電球の交換時に火花が出て火薬に引火しないように、照明の電球交換は外から行うようになっています。
D: 廊下の様子。
⑧旧第三信管置場内
A: 廊下の様子
B: 廊下の照明の傘付き裸電球。
C: 昭和16年製の工作機械。
D: 二十五粍機銃着発信管四型は安全板補や補薬をやめて量産重視にしたものらしいです。
この弾丸を使っていたのは九六式二十五粍機銃で、日本海軍で使用された対空機銃だそうですが、ほとんど敵機を撃ち落とす事はありませんでしたね💦
その頃の米軍はもう電子回路を使った近接信管でしたから…
⑨当時の土塁にあるトンネル
ねんどろいどじえいたん: 「これも当時のままのトンネルで、側溝の付いた大きいタイプとこの2種類があるそうです」
⑩旧第一火薬庫(豊川市指定史跡)
A: 火災用の水槽跡
B: 旧第三信管置場の向こうにあるのが旧第一火薬庫です。
C: 旧第一火薬庫で、火薬の保管に使っていた為にかなり強固な造りになっていました。
D: 旧第一火薬庫の後ろ側。
⑪旧第一火薬庫通路
ねんどろいどじえいたん: 「プラットフォームにトラックが横付けをして火薬を運べるようになっていました。 奥ではガイドによる定時ツアーをやっていますね♪」
⑫奥に見えるのは旧第二・三火薬庫
ねんどろいどじえいたん: 「あちらは名古屋大学豊川キャンパスの敷地にあるので、定期ツアーに参加しないと見る事ができません」
⑬入れない名古屋大学豊川キャンパス側の戦争遺跡
左上: 旧原料置場は近くで炸裂した爆弾の影響で外壁が剝がれているそうです。
右上: 500ポンド爆弾の着弾穴は直径8m、深さ2mもあるそうです。
左下: 便所跡も爆弾が至近距離で着弾して建物が吹き飛び、今は便器しか残っていません💦
⑭絵日記「工廠のあんちゃん」
ねんどろいどじえいたん: 「機銃部に勤めていた村瀬恭平さんが当時の様子を絵日記で書いたもので、定期的に入れ替えられています」
「全部読みたい時は平和交流館の図書館で読むことができますよ~」
⑮絵日記「工廠のあんちゃん」
工場に入る時は身体検査をされ、パワハラもかなり凄かったみたいです💦
卓球台は唯一の娯楽だったんでしょうね。
⑯絵日記「工廠のあんちゃん」
レーダーを妨害するチャフが降ってきても、確かに当時はまともなレーダーは日本軍に無かったと思います。
しかし… 窓の外に敵機が見えても、上官に見るなと言われたなんて💦
あと空襲後に青白い炎が一面に登って、それはまるで死者の魂のように登って故郷の方に帰っていったそうです。
☆豊川海軍工廠・最後の語り部
爆撃された工廠はバラバラになった人の遺体で溢れ、地獄と化していたそうです。
この方も体が砕けた遺体が上から降ってきたそうですね…
あと石川県から女子挺身隊員として「豊川海軍工廠」に動員された52人のうち1人しか生き残らなかったそうです…
⑰豊川海軍工廠の光学部で生き残った技術者が作った会社
ねんどろいどじえいたん: 「皆さんご存じのミノルタなんですよね。興和光器製作所(KOWA)もそうなんですよ~」
◎平和というものは歴史が証明しているように突然終わってしまう可能性がありますよね💦
出来る限り平和に務め、祈るしかありません…
以上、【愛知県豊川市にある「豊川海軍工廠平和公園」へ行ってみました】でした!