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ドラベ症候群と急性脳症後遺症とともに生きる、支援学校小3のあまと母のことを綴っています。
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木曜日は2ヶ月ぶりの学校でした(*^^*)
久しぶりに会った先生から、
「前よりも目で感情表現してる」
「動きが穏やかになったかな?」
などうれしい言葉
成長してるんだなと実感できますね
(まさかの3年連続同じ担任なので付き合い長い
)
次女も、わっくわくしながら保育所に行きました。
…なのに帰りはあんまり元気なくて、でも「○ちゃんといっぱい笑ったのー」とかしか言わないから「何か嫌なことはあった?」と聞いたら「○くんにおもちゃ倒された…」と
いつもやんちゃで、次女はちょっと苦手な子(^^; 「それはイヤだったねー。○くんも久しぶりに会えてテンション上がっちゃったのかもねぇ…」と慰め?ました。
休園解除されたとはいえまだ「可能な方は自宅保育を」なので、あまの学校やらリハビリやら予定のある日だけ保育所に行ってもらおうかなと思ってます。
この数ヵ月で、「毎日行かなくてもいいんだな」と思えたし。
次女も半分休むくらいのペースの方が楽しそう。
あまも、休校中穏やかに過ごしていたので、毎日じゃなくてもいいのかもなー。
30キロの身体を介助するのは辛いですが
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時々あまが夢に出てくるんだけど、たいてい歩いてるんですよね。
よたよた、よろよろっと歩いて、
「えーっ歩けるんじゃん!すごいすごい!」
って驚いてる。
急性脳症になってから歩くどころか首もまだしっかりしていないので、歩く姿が見られるのは単純にうれしいけど、
ちょっとだけもやもやすることもありました。
夢で歩いてる姿を見るっていうのは。
私の願望なのかな?
あまが、本当は(あるいは、いつかは)歩けるよって教えてくれてるのか。
あまの願いが伝わってきてるのか。
もしくは、私が現実を受け入れきれてないということか。
あまのこと、今も変わらずかわいくてたまらないし、ずっとそばにいたいって思うけど、
何とかしてもう一度歩いて口からご飯を食べられるようになってほしいと思ってしまうのは、今の状態を受け入れていないということなんじゃないか。
*これは急性脳症になる前から大なり小なりあったことだけれども。
2、3語でいいから発語できるようになってほしい、とか。
寝てるとき以外はトイレで排泄できるようになってほしい、とか。
あまだってその方がいいはず、と思いつつ、期待しすぎるのは子どもを認めてないことになるのかな?なんて。
なかなかすっきりしなかったけど、最近、いくつか気づきを得て、やっとストンと落とし込めた。
それは、
今のままでも人生楽しめる!
歩けたり口からご飯を食べられたりしたらもっと人生楽しめる!
ということ(*^^*)
あまにも、次女にも、楽しく生きてほしい、とずっとずっと思っています。
(*ラクに生きる、ではなく!自分勝手に生きるということでもなく。やりたいことのために努力したり苦労するのって楽しかったりしますよね。そういうことも含んでの、「楽しく」)
自分の気持ちを大事に。
生きたいように、生きてほしい。
あまにも、こんなふうに生きたい、という想いはあると思っています。
それが叶いますように、と心から願う。
それがもしかしたら「今のまま、ずっと母ちゃんと一緒にいる」だとしても、いい。
その上で、私は母として、「こうなったら、人生もっと楽しい」と思うことを伝えていこうと思う。
今のままでも、
・お散歩気持ちいいね。
・抱っこで一緒にブランコ乗って、楽しいね。
・このすべり台ならあまでもできる!(抱っこで登って一緒に滑る 笑)よしいくぞ!
・大好きな絵本読もう。
・見て見て、次女ちゃん変な顔(笑)
・ご飯おいしいね。1年前より、いろいろ食べられるようになったね。
・バランスボールで一緒に跳ねよう。
・Eテレ見よう。
・手足ぶらぶらして遊ぼう。
…楽しいこといっぱいある。
この、「今」楽しいねって気持ちと。
・もっと動けるようになろうね。
・もっといろんなものを食べられるようになろうね。
・一緒にリハビリがんばろうね。
・それでまた、公園でたくさん遊んで、美味しいものをたくさん食べようね。
・テレビ見て笑おう。
こうなったらもっと楽しいね、そうなりたいね、って願う気持ちは、一緒にいていいんだ。
思ってることは、以前とそんなに変わらないけれど(笑)
引っ掛かりが取れてすっきり(*^^*)
これからも、今を楽しみながら、もっともっと楽しい人生にしていこう。
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以前から読んでくださってる方、特にてんかん仲間は
「あゆみん最近自分語り多いな」
と思っているのではないかと思いますが
1年半前に退職したことが大きいなーと思ってます。
それまでは、忙しくて忙しくて
毎日ダッシュで駆け抜けているようで
自分が本当はどうしたいのかな、って
考えているようで、
実際は こうしたら職場に迷惑かけてしまうな、とか、
ここまでなら嫌だと思われないかな、とか
母なんだからこうしなくては(でもなんかイライラしながらやる)とか。
外からの視点ばかりだった気がする。
外からていうか、自分の妄想する「外」笑
あまが急性脳症になって長く入院したこと、仕事を辞めたこと。
(あと、その1年前に息子が亡くなったことも)
それらによって、
誰にどう思われるかを考える余裕がなくなったり
気にする対象が減ったり(←退職のこと)
しかもどかんと大きな衝撃をもってやってきて
その反動で、
今はベクトルが自分の内側に向いてるなと思います。
もちろん人への配慮や感謝は大切なことだし忘れているつもりはないけれど。
余談ですがかつての職場は、以前リーマンショックの時に支援策の1つを担っていて、私はそれを担当していて、毎日本当にたくさんの人の対応をしました。
さまざまなケースがあって、順風満帆に定年間近まで生きてきたのにリーマンショックで職を失い家も売らなきゃならないかもしれない、とか、もともとワーキングプアだったのに急にクビになって家も追い出された、とか… あっという間にいろんなものが崩れたり、ホームレスになってしまった方をたくさん見ました。
人ってお金がなくなるとやっぱり気持ちの余裕がなくなりがちなんですよね。
追い詰められてるから、語調も荒い人が少なくなかったし、利用できる制度がどうにも見つからない人には「死ねって言うのか!!」って怒鳴られたこともあった。私だって助けたかったよ。
人生っていつ何が起こるか分からないんだな って痛感した。
それともう1つ、
どこかで何かが違っていたら、私と目の前の人は立場が逆だったかもしれない、という感覚。
目の前で困窮しているこの人は、(過去未来パラレル含め)いつかの親や友人かもしれない。
だから、全力で。やれるだけのことをやる。
そんな気持ちで(…共感?と言うと少し違う気がするけれど)、私なりに一生懸命やってました。頑張ったな、と素直に思います。しんどかったよー
今その職場は、こんどは新型コロナ関連の支援策も担っているので、また大変な状況になっているのだろうな、同志たちが頑張ってるな、心身ともに疲弊しているだろうけれど何とか乗り越えてほしいな、と思っています。
その上で、
人と自分を分けること、も、大事なことだと感じます。
誰かの辛さを思って心を痛める気持ちをもちつつ、
自分の幸せ、楽しさ、そして悲しさ。
それをきちんと味わうことが大事。
明るい気持ちも、悲しい気持ちも、誰かに遠慮して感じきらずにいると、消化不良を起こすんだなって、
ここ何年かのいろいろなことを経て、痛感したから。
自分の気持ちをちゃんと見つめることが、自分を大切にするってことなのかな、って最近思う。
あとそうすることを人に押し付けないw
自分の気持ちに向き合うのはその人自身の学び、気づきだろうから。
その上で、今まで経験してきたことや感じてきたことが、誰かの役に立ったらいいなと思う。
今しんどい人、大変な思いをしてる人も、いろんな人にとって、より良い世界になりますように、と、綺麗事みたいだけどそう思う。
(1つ放置気味になってる患者会の仕事、やらなきゃ←)
なんかまとまらないけど、自分のペースで、やってこー