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昨日のブログで書いた、霊能力が格段に高いと言われていた母親の叔母さんには、娘さんと息子さんがいた。

当時、京大理学部の大学生だった息子さん、つまり私の母親の従兄弟のお兄ちゃんは、私の母親のことが大好きだったようで、大学の長期休みに京都から帰省すると、ご実家から近くもない我が家に電車を乗り継いでたまに来ていた。


私の兄の短期家庭教師もしてくれていた年もあり、お兄ちゃんは我が家にあったピアノもよく弾いていて、「あゆみちゃん、教えて(笑)」と言ってくれて我々子どもたちとも親しかった。


お兄ちゃんが所属していた合唱グループの発表会にも家族で見に行くくらい、我が家は仲良くしていた。



母には姉が2人、妹1人と弟3人がいた。

当時 独身だった一番下の弟も、母のことが大好きで、我が家によく遊びに来ていて、私たちに本をプレゼントしてくれたりしていた。母と父は、この一番下の弟の結婚の時は仲人もした。



母の実家元の私たちの従兄弟Y君とK君も我が家の「食事時の会話が文化的で面白い。自分ちには無い面白さがある!」と言っては、我々家族とお喋りがしたくて、わざわざ遠方から電車を乗り継いで我が家に来ていた。


一度なんて、我々家族が旅行から帰ったら、2人が家の中にいてびっくりしたこともあった。当然、スマホも無い時代。我々が旅行に行っていることを知らずに来たら留守なので、唯一鍵をかけ忘れてあった風呂場の小さな窓から、塀越しに足をかけて入ってきていた事には家族一同、大変驚いた(笑)




父方の私と同年のいとこAちゃんと、もう1人の別の従弟M君も我が家が好きで、我が家に泊まりに来ることもあって、M君は1人で我が家の家族旅行についてきた事もあった。


特にAちゃんは小学生から中学生にかけて、数年にわたって夏休みなど長期で我が家に泊まりに来ており、私たちと夏休みを楽しく過ごした。



このように、私の母は人の面倒見がよく、誰でも受け入れる人だった為、皆から好かれる人だった。



私の誕生日会などに来てくれた友人たちからも母親のことで「あゆみちゃん、あんな優しくて一緒に遊んでくれるお母さんがいて、いいなあ!♡」と、羨ましがられていた。


それくらい、少しお茶目で、優しく穏やかな笑顔は人を惹きつけていた。



私の学校の先生からも、母ががんで入院していた先での看護師さんたちからも、母のことでは「尊敬出来る人だね」「あゆみちゃんのお母さん、いい人だね」と褒められて嬉しかった。


このように私にとって母は、自慢の母だった。



時には、母ががんで入院していた先にまで、母の2番目の弟は、夫婦仲のことで母の元に人生の相談事をしにきていた。


母の1番上の弟は、母のことを「姉貴は天使だな…」と私に言ってきたこともあった。



50歳になったばかりで他界した母だったが、亡き後も、私の友人のお母さんがお節料理を持ってきてくれたり、近所の人たちも夕食で余分に作ったお惣菜を我が家に持ってきてくれた。


そう言った色々な親切にお礼を言うと、皆さんは一様に「お母さんにはよくしてもらったからご恩返しよ」と言ってくれた。



私も母親にならって、母亡き後は、近所に貰い物のおすそ分けをしたりするようになり、ご近所さんを大切にした。


私が結婚する時は、エプロンをプレゼントしてくれた近所の大人もいた。



母は説教じみたことを言う人ではなかったけれど、背中で、人としてあるべき姿を教えてくれた。


兄と姉と私、3人が、父親の再婚相手の面倒を最期までお世話をして、お見送りと供養をさせて貰ったのは、


兄も私もこの奥さんとは絶縁めいた事態になるまでの酷い仕打ちをされても、父の妹たちは奥さんのことをとても嫌っていて葬儀に出ることすらなくても、我々3人きょうだいは奥さんのことを許し、何十年もの間、3人の間で奥さんの悪口を言い合わないようにしてきたからだ。



常に3人は「お母さんだったらどうしたか…」ということを考えており、母に恥じない生き方をしていこうと考えて、奥さんを許した。



特に近くに住んでいて何かと奥さんから頼られ、実際に世話をしてきた私は、父の再婚によって随分苦しめられた(>_<)   


あまりにも母親と違いすぎる、直ぐに嫉妬したりして泣き出すような子供じみたこの人は、私より18歳年上だけど尊敬できる部分が少なかった。父も苦悩の色を示して、影で私に「許してやってくれ」と言ってきたこともあった。



父がこの人と再婚していなければ私の人生も、もう少し穏やかだっただろうに…  私が色々なことを我慢して、父が板挟みにならないように告げ口しないことをいいことに、裏では子どもたちに言いたい放題だった奥さんのことが恨めしかった。



けれど、

父のことが大好きで押しかけるようにして我が家に入り込んできた奥さんで、その事だけは間違いなかった。


私たちの母とは行くことのなかった海外旅行にも夫婦で何度も行くなど、父にとっては幸せな数十年であったろうから、父には父の人生があって夫婦の生活を築いて父を幸せにしてくれたことに関し感謝しようと、気持ちを切り替えてきた。



きょうだい3人は、常に「お母さんだったら…」ということを考えており、この再婚相手との向き合い方に対しても、母に恥じない生き方をしていこうと話し合ってきた。



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母が亡くなった後、家に私一人でいる時、見知らぬ若い学生くらいの男性が、母の訃報を知って、線香を手向けに来たこともあった。


その若い男性は母の遺影をじっと見つめ(あなたの)お母さんにはお世話になったので…」とだけ言い残して帰って行った。


今の私なら、どんなことが母との間であったのか?と、グイグイ聞いてしまうが(笑)、まだ20歳だった私は、自分と同年代の人が突然訪ねてきても戸惑うばかりで、何も聞き出せなかったことが悔やまれる汗



母は、家族の知らないところで、何をそんなに人様のために尽くしてきたのだろう❓と謎に満ちた出来事だった。私は母の何を知っているのだろう?とも思った…



けれど、


そんな母だったから、母本人も会ったこともなかった祖祖母までもが、母を頼って供養をお願いしてきたのだろう…


と思う…