今日は、墓についてのブログ



一般的な仏教式の墓石には


「〇〇家先祖代々の墓」と書いてある墓もあるが、


私の実家と嫁ぎ先の宗派 浄土真宗では、「南無阿弥陀仏」と墓石に刻む!



お墓にお骨を収めても、亡き人の魂は既に浄土に行ってしまっているのだから、


魂は「そこにいません~🎶」と、『千の風になって』の歌のように考える。



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衆生の民は、悪人であったとしても浄土に行けるのだろうか?地獄ではないのか?という疑問が起きる。


そこには、「悪人正機説」という浄土真宗の重要な考え方の基本がある。


「悪人正機説」とは

悪人正機は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の根機である」という意味である。 阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。 ウィキペディアより



そもそも、善人、悪人とは、誰がジャッジできようか?


1人の人間は、ある人にとっては善人であり、ある人にとっては悪人であったりもするのに、善人と悪人の明確な線引きは出来ないというのが真宗の考え方。


だから、地獄というものも真宗住職たちからの法話では出てこない。


現世で多くの人を傷つけ殺傷したような極悪人であっても、この悪行こそが、現世でこの世の地獄を見ているはずで、地獄はこの世にあると説法する。


罪人に対しても、現世にいる間に反省し懺悔する気持ちになることを願うのが、真宗の基本的な考え方と言えるようだ。


こういう意味で浄土真宗は本当に優しい教えだ。


この世の悪人と思える人達にも「お前はあの世で地獄が待っているぞ!」と脅したりはしないのだから。


多くの住職たちが、罪を犯した人たちに寄り添うように、少年院や刑務所に赴いて、相談員として彼らに寄り添っているのも、そういう事なのだろうと思う。



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浄土真宗では、京都の本山や、他府県に点在する別院に、亡き人の骨を持って行き納骨する。


よって、お墓は無くとも、問題なく先祖供養が出来る。本山や別院に行けば、先祖のお骨は預骨されているのだから…



では、先祖の魂は浄土に行ってしまっているのに、何故お墓を作る人がいるのか?


真宗門徒であっても墓に「南無阿弥陀仏」と刻んで、阿弥陀仏への帰依をあらわし念仏を唱えたい人や、京都にある本山や地方にある別院であっても遠すぎて手を合わせる場所が近くに無い場合は、「南無阿弥陀仏」と書かれたお墓に手を合わせにいき、先祖のあの世での安寧を願いたくなるからだ。


亡き人を仏さまといただくには、残された者が仏さまの教えに出遇うことがなければならず、墓石正面に「南無阿弥陀仏」と記すことは、お墓を単なる納骨所に終わらせないということでもあるようだ。



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私の実家の先祖供養の場合、幸いにも市内に別院がある。


私の祖母のお骨、母の御骨と父の御骨、そして父の再婚相手の奥さんの御骨も、別院の阿弥陀如来像の下に納骨した。



今年の7月にあった、私たち兄弟の父親の再婚相手の葬儀の時に、真宗の納骨の仕組みを知った甥っ子は、「なるほど、墓がなくても本山や別院に納骨すればいいなんて、遺族にとっては合理的な仕組みだね❗」としきりに感心していた^^;



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明日の月曜には、いよいよ「墓じまい」


その事はまた、どんな経緯で墓じまいするのかをご報告します。