11月1日。
先日、山口放送を退職して丸6年が経ち、
フリーアナウンサーとしては7年目に突入しました。
各分野でご一緒させて頂いている皆様方には感謝ばかりです。
局をやめて、事務所に所属せず、完全フリーとして喋り手を続けていくことは、最初から順風満帆ではありませんでした。
苦しいと分かっていて自分で選んだ道ながら、
想像以上に、悩んで、もがいて、
ひぃひぃ言ってた6年でした。
今日はちょっと長いです。
今日はちょっと長いです。
仕事について。
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私にとって、アナウンサーの仕事は小学生の頃からの目標だった。
テレビ、ラジオは世界中のことを何でも教えてくれる。
実家の神奈川県のマンションにあるその「ハコ」の中で、とても行けない世界中のこと、とても会えない人たちのことを伝えてくれる。
これがあれば教科書なんていらないじゃんと思っていた。
家が厳しく、ニュースはNHK、それ以外は1日1番組と決まっていたから、親のいない時間を狙って、かじりつくようにしてテレビを見る。
どんな番組もセリフを丸ごと覚えるくらい真剣に見ていた。
その中でも、美しい言葉を使い、自分が主役ではなく、主役のゲストやニュース、何かを輝かせるために、そっと寄り添う、アナウンサーの仕事が素敵に見えた。
もともと「言葉」が好きだったから、
中、高と作文、論文もバシバシ書いてはコンクールに出し、大学時代はラジオDJやBSのニュースキャスターオーディションを受けては仕事にしていた。
大学一年生から、大学と一緒にTBSアナウンススクール、テレビ朝日アスク、東京アナウンスセミナーに通った。
その3ヶ月で10万円の学費を稼ぐために、
大学4年間で29種類のアルバイトをしてお金を貯めた。
学校帰り、合コンに行ったり、クラブに行ったり、海外旅行にも行かなかった。
興味がなかった。
今思えば、アナウンス技術より、もっと色々な経験をしていた方が豊かなアナウンサーにはなれるのだと思うが、その時は好きな仕事に就くための準備しか興味がなかった。
そして、全国受験。
北は北海道から、南は九州宮崎まで。
新幹線や飛行機は使わずに、節約のため青春18切符と夜行バスのみ。
泊まる場所は漫画喫茶かファミレス。
32社目でご縁を頂いた山口放送に、局アナウンサーとして正社員で入社が決まった。
それから5年。
山口放送は本当に素晴らしい会社で、
ニュースキャスター、情報番組のMC、中継、リポーター、スポーツ番組、ラジオ番組、ナレーション、司会、CM、
企画や編集もやらせていただいた。
仕事が分かってくる。
これから、もっと面白くなる!というタイミングではあったが、ひとつ決断をした。
2013年11月1日
5年勤めた山口放送を辞め、
フリーランスになった。
芸能事務所に所属が決まり、たまたまご縁のあった芸能リポーターの仕事を昼の帯番組でレギュラーでやらせて頂けることになった。
運が良かった。
毎日朝から3本くらい記者会見に行って、スタジオ出演もあって、かなり忙しかった。
一見良さそうに聞こえるが、困ったことに、時間はないのに、月収は今までの半分にも満たないくらいだった。
貯めていた貯金はどんどん少なくなって、底をついた。
あまり言いたくはないけど、お金は大事だね。
家賃が払えなかった。食費がなかった。
当たり前に仕事があり、当たり前に固定給がある、会社員としての局アナウンサーがいかに恵まれていたかを思い知った。
自由になる7時間くらいを、アルバイトに割いて、睡眠時間、1、2時間で本業へ出掛けていた。土日は日雇いの仕事をした。
本当に寝る時間がなくて、でも「生きていかなきゃ」という強い意識があれば、朝も起きられるし、案外やれるものだ。
お付き合いでいく食事だけはきちんとお金を使って、ひとりの時にはもやしの炒めものや、キャベツばかり食べていた。
そうして、やっと新しい番組になれてきた頃、今度は4月改変で番組がなくなることになった。
様々なニュース番組や経済番組のオーディションを受けるものの、フリーアナウンサー飽和状態の中で、あと一歩の所で不合格が続く日々。
一つの仕事をとるために、何百、何千の関門をくぐり抜ける。
ただ、その仕事を得たとて、いつ打ち切りになるかは分からない。
落ちる日々が続けば、どんどん自信がなくなり、焦っていった。
アナウンサーとしてだけじゃなく、もう人間として価値があるのか?まで考えてしまう。
だって、そうでしょ?
フリーアナウンサーも、仕事がなければ、何もない人。
しばらく喋りの仕事がなかった時、
朝起きて、行く場所がないことに焦った。
街を歩いてみて、私は何やってるんだろうと思った。
この先どうなっちゃうんだろう。って。
気付いたらめちゃめちゃ天気のいい日。当時住んでいた真っ昼間の三軒茶屋の道端で、歩きながら泣いていた。
結構病んでますね(笑)
ま、要するに甘かった。
世間知らず。
恵まれてきたことを理解していなかった。
その時に思った。
今の状況では、人頼りだからだめなんだと。
事務所やマネージャーさんが仕事を持ってきてくれるのを待つのではない。
仕事は、自分で興し、生み出すもの。
喋りしか知らない私には知らないことが多すぎる。
本当にやりたいことはなんだ。
本当に伝えたいことはなんだ。
自分が作りたいものはなんだ。
与えられるものではない、独自のコンテンツを生み出すにはどうしたらいい?!
考えた結果、芸能事務所を5ヶ月で辞め、独立。
完全フリーとして、アナウンサーに加え、ゲーム業界で制作プロモーションを担当するようになった。
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私にとって、アナウンサーの仕事は小学生の頃からの目標だった。
テレビ、ラジオは世界中のことを何でも教えてくれる。
実家の神奈川県のマンションにあるその「ハコ」の中で、とても行けない世界中のこと、とても会えない人たちのことを伝えてくれる。
これがあれば教科書なんていらないじゃんと思っていた。
家が厳しく、ニュースはNHK、それ以外は1日1番組と決まっていたから、親のいない時間を狙って、かじりつくようにしてテレビを見る。
どんな番組もセリフを丸ごと覚えるくらい真剣に見ていた。
その中でも、美しい言葉を使い、自分が主役ではなく、主役のゲストやニュース、何かを輝かせるために、そっと寄り添う、アナウンサーの仕事が素敵に見えた。
もともと「言葉」が好きだったから、
中、高と作文、論文もバシバシ書いてはコンクールに出し、大学時代はラジオDJやBSのニュースキャスターオーディションを受けては仕事にしていた。
大学一年生から、大学と一緒にTBSアナウンススクール、テレビ朝日アスク、東京アナウンスセミナーに通った。
その3ヶ月で10万円の学費を稼ぐために、
大学4年間で29種類のアルバイトをしてお金を貯めた。
学校帰り、合コンに行ったり、クラブに行ったり、海外旅行にも行かなかった。
興味がなかった。
今思えば、アナウンス技術より、もっと色々な経験をしていた方が豊かなアナウンサーにはなれるのだと思うが、その時は好きな仕事に就くための準備しか興味がなかった。
そして、全国受験。
北は北海道から、南は九州宮崎まで。
新幹線や飛行機は使わずに、節約のため青春18切符と夜行バスのみ。
泊まる場所は漫画喫茶かファミレス。
32社目でご縁を頂いた山口放送に、局アナウンサーとして正社員で入社が決まった。
それから5年。
山口放送は本当に素晴らしい会社で、
ニュースキャスター、情報番組のMC、中継、リポーター、スポーツ番組、ラジオ番組、ナレーション、司会、CM、
企画や編集もやらせていただいた。
仕事が分かってくる。
これから、もっと面白くなる!というタイミングではあったが、ひとつ決断をした。
2013年11月1日
5年勤めた山口放送を辞め、
フリーランスになった。
芸能事務所に所属が決まり、たまたまご縁のあった芸能リポーターの仕事を昼の帯番組でレギュラーでやらせて頂けることになった。
運が良かった。
毎日朝から3本くらい記者会見に行って、スタジオ出演もあって、かなり忙しかった。
一見良さそうに聞こえるが、困ったことに、時間はないのに、月収は今までの半分にも満たないくらいだった。
貯めていた貯金はどんどん少なくなって、底をついた。
あまり言いたくはないけど、お金は大事だね。
家賃が払えなかった。食費がなかった。
当たり前に仕事があり、当たり前に固定給がある、会社員としての局アナウンサーがいかに恵まれていたかを思い知った。
自由になる7時間くらいを、アルバイトに割いて、睡眠時間、1、2時間で本業へ出掛けていた。土日は日雇いの仕事をした。
本当に寝る時間がなくて、でも「生きていかなきゃ」という強い意識があれば、朝も起きられるし、案外やれるものだ。
お付き合いでいく食事だけはきちんとお金を使って、ひとりの時にはもやしの炒めものや、キャベツばかり食べていた。
そうして、やっと新しい番組になれてきた頃、今度は4月改変で番組がなくなることになった。
様々なニュース番組や経済番組のオーディションを受けるものの、フリーアナウンサー飽和状態の中で、あと一歩の所で不合格が続く日々。
一つの仕事をとるために、何百、何千の関門をくぐり抜ける。
ただ、その仕事を得たとて、いつ打ち切りになるかは分からない。
落ちる日々が続けば、どんどん自信がなくなり、焦っていった。
アナウンサーとしてだけじゃなく、もう人間として価値があるのか?まで考えてしまう。
だって、そうでしょ?
フリーアナウンサーも、仕事がなければ、何もない人。
しばらく喋りの仕事がなかった時、
朝起きて、行く場所がないことに焦った。
街を歩いてみて、私は何やってるんだろうと思った。
この先どうなっちゃうんだろう。って。
気付いたらめちゃめちゃ天気のいい日。当時住んでいた真っ昼間の三軒茶屋の道端で、歩きながら泣いていた。
結構病んでますね(笑)
ま、要するに甘かった。
世間知らず。
恵まれてきたことを理解していなかった。
その時に思った。
今の状況では、人頼りだからだめなんだと。
事務所やマネージャーさんが仕事を持ってきてくれるのを待つのではない。
仕事は、自分で興し、生み出すもの。
喋りしか知らない私には知らないことが多すぎる。
本当にやりたいことはなんだ。
本当に伝えたいことはなんだ。
自分が作りたいものはなんだ。
与えられるものではない、独自のコンテンツを生み出すにはどうしたらいい?!
考えた結果、芸能事務所を5ヶ月で辞め、独立。
完全フリーとして、アナウンサーに加え、ゲーム業界で制作プロモーションを担当するようになった。
もともとゲームが好きだったというよりは、
周りにゲームを作っている人がわんさかいて、
その人たちの人間性に惹かれたのと、
そんな大好きな人たちが作っているものに興味を持ったから。
と、いうのが、嘘偽りない、
ゲーム業界に携わったきっかけです。
それでもって、ゲーム制作とゲームプロモーション(イベント制作、番組制作、CMなど)に纏わる、営業、企画、制作、運営、広報を勉強し担当するようになった。
それでもって、ゲーム制作とゲームプロモーション(イベント制作、番組制作、CMなど)に纏わる、営業、企画、制作、運営、広報を勉強し担当するようになった。
SEGA、角川ゲームス、Cygames、Yahoo!の皆様には随分とお世話になりました。
ゼロからの勉強だけれど、それを丁寧に叩き込んでくれたフナコシステムという会社の舟越社長が、
「どこへ行っても、ゼロから1を生み出し、生きていける人間にする」
と言って根気強く教えてくれた。
それに、チームで仕事をするって本当に楽しいなと思った。
全てがたくさんの人やものごとのリレーで成り立っていて、決して1人では、何者でもない。
今は結婚して子どもがいるから、制作サイドのことまではできなくなってしまったので、ゲーム司会や実況だけを担当している。
だけど、やっぱり制作サイドの気持ちが分かるからこその立ち回りを大切にしていきたい。
任せて頂く以上、与えられた時間内で最大限に勉強する。
担当するゲームのこと、ゲストや選手、ファンの気持ちを徹底的に入り込んで理解して寄り添う。
本気で自分も好きだからできる。
それだけのパワーがかけられないなら担当しない。好きじゃないならやらない。失礼だから。
全ては皆が気持ちの良い空間を作るために。
そして、MCは運営側、出過ぎない。
常に意識しています。
そして、いっぱい失敗したり、
育児の理不尽さを知ったりして、
だんだん考え方もまあるくなってきた。
肩のチカラも抜けてきた。
仕事って、目の前のことだけじゃない。
ずっと長く長く続いていくものだから、
地道に謙虚に周りの方々への感謝を忘れずに進んでいきたい。
ご一緒する皆様のお役に立てるように
引き続き精進して参ります。
7年目も宜しくお願い致します。