本著作を読んで、第一に涙があふれた。

私の人生経験に基づく死生観が、やっと、あってもよいものとして市民権を得た、そうした安堵からである。

(私、の話になる。)

私は両親を共にがんで亡くしている。父は末期がんで短期の闘病であったが、母は、10年以上にわたる闘病後の他界になる。
その10年以上の闘病期間、私は病院を往復する生活だった。その間に、6人部屋の、同じく、がんと闘う人達が一人一人亡くなっていくのを観ている。

そこで得た、私の死生観、これは、フツウの世界で語るには、異端であって、自分を守るために、私は語らず、フツウという塵にまみれて、四半世紀を過ごした。

そこで、本著作を読み、読後、ただただ、涙があふれた。

「経験に基づく死生観」、あってもよいのだ、死生観が哲学や宗教によらないで、自分の経験によってよいのだと、
私は市民権を得たぞ、と感謝の涙があふれた。

「丹波哲郎 見事な生涯」を読んで、私は、私の半生にうなづけた、そう思う。


追記として、わが父の人生にも、なるほどと思えた。
カゲリのある育ちを経た父なのであるが、人生において、ずっと、自分の系図を調べていた。
「平家と繋がりがあるまでさかのぼれた。」とか、「藤原氏とつながりがある。」とか。

彼は、自分の存在に正当性があると言いたかったのではないか、と、本著作を読んで感じたりした。
この点は、詳しくここには、書かないが、私が市民権を得た、と感じたかのごとく、父もこの世の市民権を探していたかと思う。


「丹波哲郎 見事な生涯」

丹波哲郎の世界を追いながら、一読者の私が、小さな自分の経験に、基づいて、生きたって、いいじゃん?

そう思える、後味だ。


また、何より、丹波哲郎の世界が、面白くあったので、一気に5時間かけて読み終えた、
ストーリーの展開をまるで、推理小説を読むかのごとく、読めた点も強くある。

読み終えた私が言える事は、本著作は、最後の最後まで読んでほしいという事だ。
そこに、在る、ものがあるので。


フツウという領域を外れて、
「かぶれた奴だ。」とレッテルを貼られがちなこの世に、一石を投じる作品だと思えた。


一言、面白かった、この言葉で結びたい。