☆震災を生き延びて☆
mixiのマイミクさんのマイミクさんの日記を、許可を得たので載せます
その方のマイミクさんのお姉さんの日記です。
【震災を生き延びて】
私は今、息子と一緒に内陸盛岡の実家に避難しています。
義父さん、義母さん、おばあちゃん、義理の妹、妹の彼氏はまだ被災地にいます。
旦那も少ない食料や電池などの物資を積んで、今朝、まだ連絡のとれない被災地へと戻っていきました。
私はお腹の赤ちゃんと息子を守りながら、いつまでになるかわからない期間を実家で過ごすことになります。
被災地では、山にある所以外、病院もお店も何もかも無くなり、赤ちゃんを無事に守れる環境とは言えないので、家族や避難所にいる人達を残してくる罪悪感にさいなまれながらも、私は避難してきました。
3月11日の震災当時、私と息子と90歳のおばあちゃんと義母さんは、家の中にいました。
大きくて長い揺れに恐怖し、今まで味わったことがない揺れと同時に津波を警戒しました。
その時、旦那と義父さんは養殖牡蠣の種を養殖棚に取り付けに、沖へと行っていたのです。
連絡をとりたくてもすでに通じず、ただ祈るばかりでした。
地震から15分くらいたったでしょうか…外を見るといつも見ている海が、全く様子を変えていました。
海面は空へのびるように上昇し、船が空を飛んでいるようにも見えました。
よく見ると、義父さんと旦那は家の近くに帰って来て同じ光景を見ていました。
ホッとしたのもつかの間、上昇した海面はみるみる溢れ、家へと迫りくるのがわかりました。
みんな「逃げろーっ」と叫びながら、高台へと走りました。
家には足の悪いおばあちゃんがいたので、義父さんと義母さんはおばあちゃんを二階にあげるために家に残り、私達夫婦は後ろ髪ひかれながらも息子を連れて走りました。
津波は家から数メートルにまで迫ると、やっと止まりました。
そして、みるみる引いていくと同時に、私達みんなの船や飲み込まれた家々を全てもっていってしまいました。
あんなに高かった堤防も、クッキーを割ったようにボロボロになっていました。
みんな、ただ見守るしかできませんでした。
津波が去った後も、海はまだ上下したり寄せたり引いたりを繰り返していました。
見ると、対岸の集落から出火していました。
最初は一軒から…それはどんどん広がり、やがて集落全てが燃えていきました。
みんなは逃げただろうか…道路は寸断されているから、どこへ逃げただろうか。
海からは水が溢れているというのに、誰にも火災を消すことはできず、ただ見守るしかできませんでした。
私が被災地をたった昨日まで、火は山へとうつり、燃え続けていました。
焼けた集落の住民は、なんとか逃げのびた人達が、道を探し、歩いて避難所へと来たそうです。
集落の人全員ではないのですが…。
私達が住む集落以外、ほぼ壊滅状態だということがわかりました。
たくさんあった家々は、見る影もなく瓦礫の山になっていました。
いつも使っていたジョイスも、唯一身近なショッピングセンターも、風邪をひいてお世話になった病院も…当たり前にあった生活や景色全てが津波に連れていかれました。
これから見つかる遺体の中には知り合いがいるのだろうと思うと、胸が締め付けられる…えぐられるような気持ちです。
地震から1日たった時、義理の妹が家に帰ってきたのには、本当にただ泣いて泣いて喜びました。
被災地では通信も含む、全てのライフラインが寸断されました。
ラジオをつけっぱなしにしていましたが、あちこちでは電池が不足していました。
私の家を含め、沢の水を汲める人はそれを利用していました。
カセットコンロを使ってお湯を沸かしていましたが、ガスもわずかしか無く、いつまでもつかわかりません。
電気がないので夜はローソクをともしましたが、余震の度に火事を警戒して消すような感じでした。
避難所には家を失った人が溢れ、食料も水も満足に行き渡らず、私達も余っている毛布や哺乳瓶、水をわけてきました。
被災者が被災者を支える生活。それにも限界があります。
盛岡に来て、テレビを見て愕然としました。
被害状況を目の当たりにしたショックもありますが、ライフラインが回復している場所で、ガソリンや物資を買い漁る人達の姿に、言葉が出ませんでした。
皆さんの不安は痛いほどわかります。
しかし、命の瀬戸際にある人達が物資を待って来てもらえるのを待っています。
ガソリンが無くなれば、こちらからの買い出しもできなくなる。
遺体捜索や安否確認、重機も使えなくなります。
今夜は雪です。
灯油もすでに底をつくところです。
1人でも多くの方に、被災地の生活を想像して欲しいです。
お願いします。お願いします。
皆さんの助けが必要です。どうかこの日記をたくさんの方にわかって欲しいとおもいます。
続々と集まる皆様の善意が、早く被災地に届くよう祈ります。
その方のマイミクさんのお姉さんの日記です。
【震災を生き延びて】
私は今、息子と一緒に内陸盛岡の実家に避難しています。
義父さん、義母さん、おばあちゃん、義理の妹、妹の彼氏はまだ被災地にいます。
旦那も少ない食料や電池などの物資を積んで、今朝、まだ連絡のとれない被災地へと戻っていきました。
私はお腹の赤ちゃんと息子を守りながら、いつまでになるかわからない期間を実家で過ごすことになります。
被災地では、山にある所以外、病院もお店も何もかも無くなり、赤ちゃんを無事に守れる環境とは言えないので、家族や避難所にいる人達を残してくる罪悪感にさいなまれながらも、私は避難してきました。
3月11日の震災当時、私と息子と90歳のおばあちゃんと義母さんは、家の中にいました。
大きくて長い揺れに恐怖し、今まで味わったことがない揺れと同時に津波を警戒しました。
その時、旦那と義父さんは養殖牡蠣の種を養殖棚に取り付けに、沖へと行っていたのです。
連絡をとりたくてもすでに通じず、ただ祈るばかりでした。
地震から15分くらいたったでしょうか…外を見るといつも見ている海が、全く様子を変えていました。
海面は空へのびるように上昇し、船が空を飛んでいるようにも見えました。
よく見ると、義父さんと旦那は家の近くに帰って来て同じ光景を見ていました。
ホッとしたのもつかの間、上昇した海面はみるみる溢れ、家へと迫りくるのがわかりました。
みんな「逃げろーっ」と叫びながら、高台へと走りました。
家には足の悪いおばあちゃんがいたので、義父さんと義母さんはおばあちゃんを二階にあげるために家に残り、私達夫婦は後ろ髪ひかれながらも息子を連れて走りました。
津波は家から数メートルにまで迫ると、やっと止まりました。
そして、みるみる引いていくと同時に、私達みんなの船や飲み込まれた家々を全てもっていってしまいました。
あんなに高かった堤防も、クッキーを割ったようにボロボロになっていました。
みんな、ただ見守るしかできませんでした。
津波が去った後も、海はまだ上下したり寄せたり引いたりを繰り返していました。
見ると、対岸の集落から出火していました。
最初は一軒から…それはどんどん広がり、やがて集落全てが燃えていきました。
みんなは逃げただろうか…道路は寸断されているから、どこへ逃げただろうか。
海からは水が溢れているというのに、誰にも火災を消すことはできず、ただ見守るしかできませんでした。
私が被災地をたった昨日まで、火は山へとうつり、燃え続けていました。
焼けた集落の住民は、なんとか逃げのびた人達が、道を探し、歩いて避難所へと来たそうです。
集落の人全員ではないのですが…。
私達が住む集落以外、ほぼ壊滅状態だということがわかりました。
たくさんあった家々は、見る影もなく瓦礫の山になっていました。
いつも使っていたジョイスも、唯一身近なショッピングセンターも、風邪をひいてお世話になった病院も…当たり前にあった生活や景色全てが津波に連れていかれました。
これから見つかる遺体の中には知り合いがいるのだろうと思うと、胸が締め付けられる…えぐられるような気持ちです。
地震から1日たった時、義理の妹が家に帰ってきたのには、本当にただ泣いて泣いて喜びました。
被災地では通信も含む、全てのライフラインが寸断されました。
ラジオをつけっぱなしにしていましたが、あちこちでは電池が不足していました。
私の家を含め、沢の水を汲める人はそれを利用していました。
カセットコンロを使ってお湯を沸かしていましたが、ガスもわずかしか無く、いつまでもつかわかりません。
電気がないので夜はローソクをともしましたが、余震の度に火事を警戒して消すような感じでした。
避難所には家を失った人が溢れ、食料も水も満足に行き渡らず、私達も余っている毛布や哺乳瓶、水をわけてきました。
被災者が被災者を支える生活。それにも限界があります。
盛岡に来て、テレビを見て愕然としました。
被害状況を目の当たりにしたショックもありますが、ライフラインが回復している場所で、ガソリンや物資を買い漁る人達の姿に、言葉が出ませんでした。
皆さんの不安は痛いほどわかります。
しかし、命の瀬戸際にある人達が物資を待って来てもらえるのを待っています。
ガソリンが無くなれば、こちらからの買い出しもできなくなる。
遺体捜索や安否確認、重機も使えなくなります。
今夜は雪です。
灯油もすでに底をつくところです。
1人でも多くの方に、被災地の生活を想像して欲しいです。
お願いします。お願いします。
皆さんの助けが必要です。どうかこの日記をたくさんの方にわかって欲しいとおもいます。
続々と集まる皆様の善意が、早く被災地に届くよう祈ります。