千早赤坂城は大阪の金剛山のふもとにあります。歴史の詳しい方は、鎌倉時代末期に楠正成が、天皇親政を目指し、鎌倉幕府に反旗をあげ、鎌倉幕府が討伐に来たが、少数の軍勢で迎え撃ち、打ち破った城と言うことをご存じだと思います。


楠正成

しかし、ですね。

千早赤坂村は、大阪市内から車で3時間かかります。

電車で行くと、JR大阪環状線、天王寺駅から近鉄 阿倍野橋駅へ乗換、南大阪線、富田林駅下車、金剛バス千早ロープウェイ行約30分「千早赤阪村立中学校前」降車、徒歩5分かかるそうです。
上赤坂城 下赤坂城
現在でも、大阪から3時間もかかるところですよ。

当時、京都が都であっても、京都からは2日はかかるでしょう。まだ、街道も整備されていない鎌倉からは、1520日かかったでしょう。

幕府転覆の動きとはいえ、はるか鎌倉から離れた地域で、数百?の兵が騒動を起こしても対処する必要があったのか?また、それがどうして判明したのか?また、その討伐軍が本当に来たのか、戦意はどの程度あったのか?


千早赤坂村

新聞やTVがあり、交通手段や道路も整備された現在を基準に考えると不可思議なことはないが、伝達手段は飛脚(これも街道整備もされた後)の文や伝令でしか、知ることができない事実をどのように、伝え、感じ、判断し、大軍を派遣したのでしょうか?

京に騒動が起きるとか、鎌倉が攻められるとかではない、非常に初期の段階の騒動をどのような手段で情報収集し、ここで種火を消すべきだと考え、行動に移したのでしょうか?

現在の人間の能力にはない、第六感や第七感でもなければ、手紙だけでは、およそ伝えたり、情報収集できないのではないでしょうか?

虫の知らせやぴ~んと来るとか、ひらめきは、第六感や第七感ではないのでしょうか?

これを昔の人は、発達していて、現在の人は退化したと考えれば、腑に落ちるような気がします。