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抗命 師団長全員が途中解任 インパールの記憶​

朝日新聞社

 

 歩兵第214連隊の小隊長を務めた塩坪辰実さん=栃木県小山市=は、戦闘手記で「作戦には賛否両論があった」と書き残した。

 

​手記によると、214連隊などを束ねる第33師団長の​柳田元三​は初めから反対だった。だが、大本営が認可した作戦に軍人として異を唱えられなかった。​

​ 作戦が進むと、33師団司令部近くに死傷者が次々に運ばれてきた。脳漿(のうしょう)を流してけいれんする者、太ももがザクロのように裂けた者……。柳田は戦力差を痛感し、弾薬や食料の補給がないままでは配下の連隊が全滅すると判断。第15軍司令官の​​牟田口廉也​​に作戦中止の意見書を出した。​

​ 牟田口は柳田を臆病者と決めつけ、攻撃続行を強いる電文を送った。柳田が「ご期待に沿うことはできない」と返すと、作戦中の師団長解任に発展した。​

​ 柳田だけではなかった。第31師団長の佐藤幸徳は「抗命」に踏み切った。1944年5月末、独断で撤退を命じた。上官の命令は天皇の命令とされ、絶対従わなければならなかったが、弾薬や食料の補給がまったくないことに業を煮やした。将兵を救うため命令に背き、解任された。​

 第15師団長の山内正文も病に倒れ、交代させられた。インパール作戦は3師団長全員が途中で解任される異例の戦いでもあった。

​ 31師団の分隊長だった佐藤哲雄さん(103)=新潟県村上市=は、前線で「抗命」を知り、「ありがたい、多くの命が救われたと思った」という。​

 佐藤さんには忘れられない訓示があった。出征前に歩兵第58連隊(新潟県上越市)へ転属する際、歩兵第16連隊(新潟県新発田市)副官の少佐から「死ぬばかりが国のためではない。必ず帰ってきて国のために働け」と諭された。

 その言葉を胸に「死んではならん」と前線でも言い聞かせ続けた。それだけに陸軍史上前代未聞の「抗命」は、ほとんど抵抗なく受け入れられたという。

 敗戦後しばらく、軍に背いた佐藤師団長の評判は郷里で芳しくなかった、と佐藤さんは言う。佐藤師団長は山形県庄内町出身。県境近くの村上市に暮らす佐藤さんの元にも風聞は伝わった。しかし、歳月が流れ、帰還兵や市民団体が佐藤師団長の功績を評価するようになった。町の寺院には追慕の碑が立っている。(中村尚徳)