う~日に日に寒くなっていますね
外出好きな私ですが・・・ここ数日は家でおとなしくしてます
だって寒いんだもん(≧∀≦;)
前々回のブログでBS歴史館という番組を見たというお話をしたのですが
私が好きでよく見ているBSの歴史番組がもう1つあります
それが『THEナンバー2』
ナンバー2というだけあって、普段なら日の目をみない
武将さんもちらほらとスポットがあたるので新発見が多いんです
ぼそっ・・・最近は歴史案内人の西村雅彦さんのおでこの光り具合が
ハンパなく気になるんですけどね
(ほっといてくれって感じですよね)
はい、ごさっしのように今回も今週放送されていた
『豊臣秀次』に乗っかってみました!
秀吉に切腹させられた武将さんと聞いていたので
どんなことをしでかしたのか!?と思って放送を見てたんですけど
・・・何も悪いことしてないじゃん!!!
秀吉の後継ぎに対する執念だけが余韻として残る
なんとも理不尽なお話を聞いたような気分になりましたよ
早くに関白の座を譲られ30歳にも満たない若さで命を失ったあげく
亡くなった後も悪人として冒涜される
聞いてるだけでなんとも辛い内容です(・ω・、)
比較的今の私に近い年齢で命を落とした彼は
ホントはどんな人だったんだろうともっと知りたくなりました
秀次は秀吉の姉・日秀の子で秀吉の数少ない血縁者として
重用される運命にありました
1583年賤ヶ岳の戦いでは武功をあげるも
1584年小牧・長久手の戦いで家康軍に惨敗したため
そのことで秀吉の怒りをかうこととなります
しかしその後、紀伊雑賀攻めや四国平定では武勲を残し
恩賞として近江国蒲生郡八幡山城に43万石を与えられました
秀次の近江国の統治はすばらしいものだったと
今でも讃える人が多いようです(^-^)
例えば、安土城から商人を移住させ、碁盤の目状の街路を造り
武家と町人の居住区を分けました
また、八幡堀を造り海運を発達させたり、
当時としてはめずらしく上下水道もあったそうです
この話を聞くと敵に攻め込まれないように作られがちな戦国時代の町
というよりも江戸など戦いのない平和な町づくりって印象ですね
もしかしたらとっても人民想いの方だったのかなぁと思います
芸能を好む風流人であったみたいですし
6年間の近江国の統治で才能を開花させた秀次ですが
24歳の時についに後継ぎができなかった秀吉から関白職を譲られます
ここから順風満帆の人生を歩みそうな雰囲気もしたのですが
秀吉の後継者としての地位を固めたことにより彼の悲劇が始まります
・・・2年後
なんと秀吉に自分の血を引く秀頼という子供が生まれたのです
秀次がいる限り秀頼を後継者にすることはできない
自分の子になんとしても後を継がせたい秀吉は次第に
秀次の存在がうとましくなり、ついに高野山に追放してしまいます
これだけでもなんとも理不尽な!!!って感じたのですが
秀吉は彼の血を完全に断つまで手を緩めようとはしなかったのです
同年7月・・・秀次は切腹を命じられ、それに従いました
そして、妻や家族、総勢39名も一緒に粛清され
秀次の首は三条河原にさらされたのでした
切腹には石田三成や淀殿の陰謀であった
また、秀次が後継ぎになれないことを嘆き狂ったという奇行説など
いろいろあるようですが、やはり、歴史というものは
勝った(生き残った)者によって作られた記録なんだと強く感じます
秀吉という天下人から切腹を命じられた秀次は『悪人』とみなされ
『殺生関白』とまわりから噂されたため切腹に至ったとも
言われてるようですから(σω・`*)
出家させられたうえの切腹、さらに切腹に応じたにもかかわらず
罪人のように首がさらされるという残虐非道な処置
こんなことをされたという事実を考えると私からすれば
秀吉こそ奇行であって、彼に振り回され捨て駒のように捨てられた
秀次は何とも悲運の武将だと感じました
まだ幼い秀頼に家督を継がせることしか頭になかった秀吉
血縁者が少なく苦労したはずなのに自ら豊臣の血を潰したのですから
秀吉の死後・・・豊臣の世がこなかったのも自業自得かもしれませんね
秀吉の秀次に対する行動自体が秀吉に対する家臣の忠誠心を
揺るがすものになってしまっていたかもしれませんけどね
こればかりはわかりませんが・・・
もし秀次がそのまま継いでいたら・・・
もし豊臣を名乗る者が生きていたなら・・・
秀吉が願った豊臣家の存続に貢献できたんじゃないかなぁと
考えてしまいます



















