みなさんGW楽しんでますか?

私はGW中は渋滞を懸念して結構こもり気味の生活をしてます家

GWがあけたらぱ~っとどこかに出かけようかなぁ


さて・・・今週も『THEナンバー2』という歴史番組を見ていたのですが

今回は独眼竜政宗の参謀『片倉小十郎景綱』についてでした!

小十郎をピックアップしてくれるなんて・・・

ナンバー2という番組だけあっていいとこついてくるなぁと

一人で感心していましたうんうん


小十郎は神社の神主の二男として生まれ

後に政宗の父である伊達輝宗に仕えました

19歳の時に政宗の養育係となり後に軍師として重用されるようになります


伊達政宗といえば・・・「伊達者」の言葉の由来でもあるように

朝鮮出兵の際、絢爛豪華な戦装束で秀吉に従軍したと言われるような

戦国随一のパフォーマーで、今の時代でもかっこいいと思わせるような

オシャレな甲冑や鎧を纏う男前な武将!というのが私の印象ですキラキラ


ですが・・・政宗9歳の時にさかのぼると・・・


政宗は5歳の時、疱瘡で右目の視力を失い眼球が突出し

そんな醜い自分の顔がコンプレックスとなり無口で暗い性格だったんです

養育係である19歳の小十郎はそんな政宗の性格を直すため

右目を取り除くよう進言し一気に短刀で眼球を抉り出したといいます


コンプレックスから解放された政宗は明るい性格に変身したのですが

右目を取り除くなど、2人の間に絆があってこその判断であり

この時から小十郎は政宗の右目となる決意をし、政宗もまた、

自分の右目を託せるのは彼しかいないと悟っていたように感じます


18歳で政宗は家督を相続した訳ですが

彼の立つ戦場ではいつも小十郎の奇策が輝いていましたキラキラ


○1585年 人取橋の戦い

 敵方連合軍3万余り、伊達軍7千という圧倒的な不利な状況の中

 総大将の政宗まで敵軍が迫ろうとしている所、小十郎は政宗に

 「小十郎」と呼びかけ即座に政宗の影武者となることで君主を救った

 また連合軍の大将:佐竹義重に安房の里見義頼や水戸の江戸重通らが

 不穏な動きを見せているというガセの情報を流し大将を見事撤退させた


○1589年 摺上原の戦い

 小十郎が見物人に向けて発砲し農民が逃げるのを味方(蘆名軍)が

 敗戦し逃げているのと勘違いさせた


まさに火のない所にわざと煙をたてるという小十郎の戦法は

相手方の兵を惑わせ危機的戦況を脱するに大いに貢献しました


そして、政宗最大の危機ともいえる事態がおきますぇ…

政宗VS秀吉です


○1590年 小田原合戦

 小田原の北条氏を攻めるにあたり豊臣秀吉から

 上洛して恭順の意を示すよう幾度となく書状が届いていた

 関東へ進出するか・・・秀吉に屈するか・・・

 直前まで迷い、生き残りをかけて小田原参陣を決意するも

 前日、政宗が実の母に毒を盛られるという事件も起き

 さらに時期を逃してしまうという絶体絶命の窮地に陥っていたsweat*


 もちろん・・・秀吉は伊達の遅参に御立腹であり謁見も許さぬ状況

 そこで政宗は大芝居を打つことを決意

 謁見が叶った当日、政宗は死装束にざんばら髪という姿で登場!

 秀吉をはじめ、まわりの者をあっと言わせましたえ゛!

 「もう少し遅かったらココ(首)が飛ぶところだった」と

 秀吉はようやく笑って答えたという


この登場も小十郎の案だったと言われています

そもそも政宗になかなか会ってもくれなかった秀吉に謁見叶ったのも

笛をたしなむという風流人でもあった小十郎が

同じ風流人の千利休の力を借り秀吉に話を通した事に始まり・・・

謁見の際には芝居がかった演出が好きな秀吉の性格を逆手にとった

決死の覚悟を表した死装束のパフォーマンスを考案!!!

彼がいなかったら本当に政宗の命は危なかったかもしれませんね


○1891年 葛西・大崎一揆

 蒲生氏と一緒に一揆を鎮圧するが政宗自身が一揆を煽動していたことが

 露見し、謀反の疑いがかかる・・・またしても絶体絶命!!!

 喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨を秀吉に弁明

 この際、秀吉に自分の無実を証明するため、磔(はりつけばしら)を部下に

 かつがせ自分は白装束で入京したという


こうして幾度と襲いかかるピンチを乗り越えた訳ですが・・・

状況判断力、適応力、情報収集力・・・小十郎は全てにおいて長けている

そして小十郎の案を堂々と実行し人目を引きつける魅力を政宗は持っている

名将として名高い人物の後ろには必ず名軍師がいるものですね


そして・・・

力を持っていながら生涯他の武将になびかずに政宗を立てる小十郎

19歳で政宗と出会ってから死ぬまで40年間途切れなかった絆

その強さにただただ驚かされました


小十郎の死を聞いて・・・生涯見ることのできない政宗の右目から

涙が流れたと言われています


本当に政宗がもう少し早く生まれていれば天下を取っていたかも・・・と

惜しまれる理由がちょっとわかった気がします

前のブログで静岡でもう一つ見てきたものがあると

書き残して終わったのですが・・・

すぐにブログを更新する予定が普段の怠け癖がでてしまい今日に至りますがーん


ではでは!

気を取り直してさっそく見てきたものをご紹介!


じゃじゃ~んアップ



あゆい旅籠


じつはこれ、西郷・山岡会見記念碑なんです!

普通に静岡の街中・・・しかもバス停前にあったので

正直写真を撮るのが恥ずかしかったぁ笑

いやいや、幕末好きの私が撮らなくてどうする!

ってことで・・・ぱしゃりかめら。・・・この写真です(≧∀≦;)


鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が江戸に向けて進軍を開始・・・

このままでは江戸が戦禍に巻き込まれる所

西郷と勝の会談により「江戸城無血開城」が実現しました


2人の会談を実現させるため、一人、決死の覚悟で官軍の中を

駆け抜けた人物こそ影の立役者である山岡鉄太郎キラキラ

彼の爪痕がこんな所に存在してました


石碑の隣にちょっとした説明書きが載っていたのでご紹介します


マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆


慶応4年(1868年)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者の勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われた。この会見において、15代将軍徳川慶喜の処遇をはじめ、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引き渡しなどが合意され、5日後の3月14日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現した。明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置づけられるものである。


マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆マルキラ☆


静岡のちょっと東の蒲原という民家に

山岡さんをかくまったという隠し部屋が残ってるというのを

TVで放送されていたのを思い出しましたテレビ

西郷さんの所へ辿りつくのは想像以上に大変で命がけの使命だったんですね


山岡さんは1868年冬に駿府に移住し1869年には静岡藩権大参事

1872年からは天皇の側近として仕えたそうです

静岡に無禄移住した旧幕臣たちの支援にあたっていたことが

関口隆吉への書簡からも伺えるそうでここ静岡の地でも活躍されていたんですね

なんだか感慨深いお話ですにっこり


ちょっとしたウォーキング(私にとってはかなり長い距離でしたが)で

いろんな収穫ができてよかったです(*´∀`人)

春だというのにまだまだ寒い今日この頃・・・


今年こそお花見をするぞ!と意気込んでいたのですが

時期を逃してしまい今年も断念・・・ダメダメですil||li (つω-`。)il||li


その変わりといってはなんですが

先週末、桜の見納めだ~と意気込んで静岡の『駿府公園』

(現在は駿府城公園と名前を変えたらしい・・・)まで

運動も兼ねてウォーキングしてきましたぁテクテク歩く人


JRの駅でいうと2駅くらいの距離なのでざっと片道2時間くらい

かかるかなぁと思って歩きだしたのですが・・・


甘かった・・・(´・ω・il)

まぁ・・・途中の神社にはいったりちょっとしたお山に登って

景色を眺めたりしたせいもあったんですが3時間もかかっちゃいましたよぉ


途中でちょいちょいお花見もしました桜の木



あゆい旅籠


やっぱりキレイだなぁ~(*´ェ`*)

川面におちる花びらをの~~~んびり眺めていました

(ただ単に足休めをしていたともいう)


駿府城公園に来たのは昨年『駿府マラソン』に参加して以来!

今年は練習不足でマラソンあきらめちゃったので

来年に向けてトレーニングします・・・( ≧∀≦)ノヤァーッ!!


駿府城公園にもちゃんと桜が咲いていましたよ音符



あゆい旅籠


着いたのが夕方になっちゃったので

ここからの写真はちょっと暗めです・・・スイマセンあせ


ちゃんとスニーカーを履いてきたんですが

かかとが靴ずれで大変なことになっていたので

公園で呑気にお菓子を食べたりジュースを飲んだりして一服

(子供かよっ!)


そうそう・・・

この公園は徳川家康が将軍職を秀忠に譲った後に

移り住んだ駿府城跡地でもあります

家康在城時の駿府の町は江戸と共にいわば2元政治が行われていたため

政治、経済の中心地としてこの地も大いに繁栄していたそうです


寛永12(1635)年の火災により天守等の殆どの建物が焼失して

櫓、門等の建物は再建されますが天守は再建されませんでした

こうしてだんだんと駿府城は建物の規模も

政治経済の中心地としての賑わいも次第に縮小してしまったんですね


戦後、本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備

巽櫓、東御門の復元もされ現在の姿になっています



あゆい旅籠


江戸がにぎわっていた時代、同じくらい重要拠点だった駿府の地なのに

今は一見普通の公園・・・

巽櫓、東御門が復元され、石垣も健在なので

門をくぐりぬけた先の公園にお城らしき姿が微塵もないのが

なんだかちょっと寂しいですしょぼん

といいますか、私としてはもったいなくてたまりません!!!

ぜひぜひこの調子で天守も復元してほしいです


公園内の家康さんの像もこの地の再開発を夢見ていますよ笑



あゆい旅籠


がんばれ!静岡笑


あっ・・・あ

静岡へ行ったついでにもうひとつ見てきたものがあるのですが

長くなってしまったのでまた今度にしまぁす( *´艸`)