過去のことを覚えてる
振り返って泣く
過去のキズに今も反応する
過去の恐怖心から今も恐いと思う
これは、
過去をいつまでも引きずる
そんな単純な話じゃない
痛みに蓋をする
都合の悪いことは考えない
恐いと思っても
なかったことにする
“みんな”と同じに安心する
それは意外と簡単なんよ
だけど、
痛みと向き合う
耳が痛い言葉も受け入れる
怖かったこと、
起こった事実と感情を
なかったことにはしない
“自分はどうか”
そこに意識を向けるのは
途方もない労力も
根気も痛みも伴う
しんどいし、時間もかかる
それでも向き合うのは
今をこれからを
大切に生きたいからだ
1つ1つの会話や出来事を
深く捉えているからだ
自分のことを
本当に大切にしようと思ったとき
避けられない痛みはある
そこに向き合うために
過去まで遡らないと見えない
大人になった今だから
過去のキズを迎えに行ける
気にしすぎ
ひきずりすぎ
過ぎたこと
そこで立ち止まると
先には進めない
人間的に成熟していくまで
きっと自分はやめない
何度も向き合う
その痛みもキズも
引き受けながら
もっと先を見通している
その話はその日でおしまい
大多数の人はそうかもしれない
自分の内側の構造はこれだ。
何が起きたのか?
どういう事だったか?
どんな意図があったのか?
なぜその言葉が出てきたのか?
相手の背景や状況まで分析する。
同時に
自分はどう感じたか?
何に反応したのか?
どこに引っかかったのか?
何故そうなったのか?
そこを自分の中の理解になるまでどんどん深く掘っていく。
これは無意識のただの思考のクセだ。
ゆっくり咀嚼して、分解して、構造を理解したいから、その場では答えられないことは持ち帰って何日もかけて考える。
自己理解して負に落としたいから。
納得したら確認をする。
「自分はこう思うんだけど、この解釈で合っているか?こういう意図で良かったか?」と本人に聞く。
相互理解のための擦り合せをする。
世間では「ひきずる」という認識らしい。
ここで、そんな視点や捉え方があるのかと、ビックリする。
そして、また考える。
言葉の意味と自分の真実にギャップがあるから。
何故曲解されるのかわからないから。
違和感もそのままにしない。
真実や事実からかけ離れた解釈は
「なぜそうなったの?その発想はどこから出てくるの?」と深掘りする。
結局、自分の中にない感性は理解できない。
最終的には価値観や感性が違うだけだから、どこまでいっても平行線にしかならない。
交じり合うことはないんだという理解に到達する。
そこでようやく終わる。
だけど、何の誤解もなく、説明もいらず、ニュートラルに話せてお互い分かり合える関係性があることも知っている。
人生の中で少ないけど、そこで選択する。
“自分自身は誰と生きたいか”
“自分自身はどう生きたいか”
“自分自身はどう在りたいか”
それが、社会に迎合せずに自分を生きる結果として、孤立したり、自由過ぎると人の目に映ることもある。
最初から上手くいく人生なんてない。
幾度とない挫折も痛みも通過した結果、最善の生き方を選択するようになった。
みんなそれぞれ価値観がある。
価値観が合わないと摩擦が生まれる。
自分は価値観を大切にする。
似たような価値観かあると、お互い話が尽きないから。
お互いに答え合わせにもなるし、学びや気づきがあり、話すことで新しい視点や価値観も見えてくる。
自分はそういうコミュニケーションを大切にしている。
自分を理解するために、どこまで向き合うか。
考えすぎと言われても自然発生的に起こる自分の中の現象でしかない。
それでも最善の今があるから、自分はこのままでいいと思う。