お母さんと誕生日 | 小松亜有オフィシャルブログ Powered by Ameba

お母さんと誕生日

お母さんは、美人で明るくて料理がすごく上手なお母さん。
歌声もキレイなお母さん。
あゆたちを産んでちょっと体がたくましくなったお母さん。笑
いつもあゆの味方でいてくれたお母さん。
笑顔がステキなお母さん。


あゆが8歳の時、
お母さんは手術しました。
脳腫瘍。
手術は無事に終わったのを引き換えに、
お母さんの前髪はなくなり、いっつもオシャレな帽子を着るように
なったお母さん。
前髪がないから後ろ髪だけは長かったお母さん。
チョコレートとコーヒーが大好きなお母さん。

いつしか、寝てる日が多くなり、
時間にルーズになり、
ご飯もあんまり作ってくれなくなったお母さん。

あゆが15歳の時にお母さんとお父さんは離婚。

話すと長くなるので、省略しますが、
18歳で再手術。

プロテストを通過した2009年の8月、
お母さんの脳腫瘍はどんどん広がってたみたいで。
気づいてあげることもできずに、3回目の手術。

お母さんが一生懸命作ってくれた最後のご飯はあゆが18歳の時。
シャビシャビのシチューを泣きながら食べたな。。
今は一生懸命作ってくれたんだって思うけど、その時は、
なんでご飯の一つも作ってくれないんだ!それでも親か!!
って泣きながらお母さんに言ったのを今でも覚えてます........

去年の夏、お母さんの脳腫瘍は勝手に小さい血管を作っていくらしく
その小さい血管がプチプチきれてて、脳を圧迫。
お母さんは即入院。血を抜く手術を。

7月から、半年間ずっと病院。
でも今考えたらその時が1番元気だったのかな。
内緒で売店に行って、看護婦さんに何回も怒られたね。
食べることだけは大好きだったお母さん。
でも、食べるのが遅すぎて看護婦さんに何回も怒られて。笑
売店であゆが載ってるかもしれないからと毎日新聞買って。
何回も、おんなじ柔軟剤買って。
うちにまだ3個もあるよ。笑

クリスマスもお正月も病院で寂しい思いさせちゃったね。

でも、去年の2月は2人で
BIGINのコンサートにも行った。
階段がのぼれなくて、左手がうまく使えなくて、お母さん惨めだよ。
って泣きながら言われた時、
涙が止まらなかった。

今年の1月に晴れて退院。
でも、先生からはもう手術もできないし、抗がん剤もできない、
薬も摂取することはできません。
でも、腫瘍は増えていくであろう....。それがどうゆうことか分かってました。。

ご飯がおいしい、自由にできる、
介護士さんや看護婦さんがいる
施設に移ったお母さん。
毎日メールして、ご飯も美味しい、催促もされないし嬉しいって話しを聞いてました。
2週間のオーストラリア合宿から帰ってきて一緒に、
近くにあるロイアルホストに食べに行って、31のアイスクリーム食べた。
2月3日、それがお母さんと一緒に食べた最後のご飯でした。

だんだん歩けなくなって、だんだんご飯が食べれなくなっていくお母さん。
2月はいきなり悪くなってしまったお母さんとと自分とも葛藤の毎日で。
いける時は31買って食べさせてあげました。
絶対にチョコレート。チョコレートもいろんな種類日に日に変えて買って食べさせてあげました。
日に日に何かが出来なくなっているのが目に見て分かる事実を受け入れたくなくて何か助けてあげられる方法はないのかいろいろ考えました。
だんだん飲み込む力さえもなくなって大好きなアイスクリームも食べなくなっちゃって。
点滴だけ。
あゆだよ!! わかる???
何回言ったんだろうな。。
3月の終わりに先生から言われた一言。
あと、2ヶ月くらいでしょう....


頭が真っ白になった。
一緒にご飯に行くのも、会話すらできない。

手足がいつも冷たいのに、体温調節ができないお母さんはいつも熱があって。痛いってことすら訴えれない。
あゆは行って笑顔を見せること、ハグしてあげることしか
できないけど、できる限り顔を見せに行った。
近くでは満開に咲いた桜すら見せてあげることもできなくて。
桜を部屋に持っていったりもした。

お母さんが好きなCDながしたり、体マッサージしたり、
そんなことしかできなくて。。

お母さんにまだまだ教えてもらいたいことたくさんあった。
あゆの花嫁姿も見せれてない。
でも、1番辛かったのお母さんだよね。
苦しかったのはお母さんにだよね。

そして、何よりお母さんはいつもゴルフ応援してくれてた。
ジュニアのときは毎日送り向かい。
いっつもどこでも試合についてきてくれて。
プロになってからその姿みたいっていつも言ってた。
でも、一昨年、中京に出た時、最終ホールを見にきてくれたんです。
お母さんの友達が腕を引っ張って連れてきてきれたんです。
あゆはお母さんを見つけることできなかったけど、
電話で、あゆ、かっこよかったよ。最後ナイスバーディーだったね。
よく頑張ったねと電話をくれました。木の下で座って見てたよと。

それが最初で最後だった。
たった一ホール、きっとパターだけの姿だったけど。
見にきてくれて本当に嬉しかった。


友達の親を見ると辛くなったり悲しくなったりする。
なんでって。
でも、ある人から言われたんです。
子供は親を選んで
産まれてくるんだって。
親が子供を選ぶわけじゃなく、
子供が親を選んでこの世にくるんだって。

あゆが選んだお母さん。
周りになんと言われようとあゆの大好きなお母さんなんだ。
お母さんは強い。
いつもあゆのこと気にかけてくれて、体のこと心配してくれた。
お母さんはもっと自分のこと心配するべきだったよね。。
分かってあげられなくてごめんね。

4月の終わりにまた病院に戻った。
ICUへ。
5月2日には、後、一週間もつかもたないかと先生に言われました。
一生懸命、息を吸って頑張ってました。
もう、手も固まってしまって、手を握ってあげることもできなくなって。。
3ヶ月以上も、飲んだり、食べたり、動いたり、出来ずすごいストレスだったね。
心電図の音がなるたびに
あゆだよ!ゆっくり息してお母さん!
あゆここにいるからね。大丈夫だから。大好きだからね!

そんな落ち着かない毎日が続きました。



6月3日。
あゆの誕生日。
24歳になれました。
なんとなーく、
ふらーと病院に行って、
お母さんに、話しかけてました。
心拍数も、血圧も、呼吸も、
いつもと変わらなかった。

お母さんー!
今日、あゆの誕生日だよ!もう、
24歳だって!信じられる?
あゆを産んでくれてありがとうね!
産んでくれてありがとうね、お母さん!

すると、お母さんは息をすると同時に3回、うなったんです。
きっと、おめでとうって言ってくれたんだなっと。

でも。

そのすぐ後に、心電図が鳴った。
心拍数が40に。血の気が引いた。
お母さん!お母さん!
って何度も叫んだ。
すぐにお姉に連絡した。
お母さん、息して!息して!っと
何回も言いました。


お母さんはそのあと、


あゆの誕生日に、あゆの目の前で、
苦しみもなく、
眠るように、天国にいってしまった。

看護婦さんに言った。
心電図の音、消してもらえますか....

あゆの誕生日まで、頑張ってくれた。

あゆがあと何日で誕生日だよっと、
くどいように言ってたからかな...

いろんなチューブをとってもらった
お母さんの顔は、ようやく楽になれた顔をしてた。
リラックスした顔でした。

お葬式も終って。
辛すぎて、お別れしたくなくて、
たくさんたくさん泣いた。
今でも、気が抜けると涙が自然に出てくる。
今にでも、起きて、
あゆちゃん。。と話しかけてくれそうなお母さんの顔にキスをして、
最後のお別れをしました。

何にもしてくれなくていい。
お母さんをなくさないで欲しかった。
骨になったお母さんは、受け入れれなかった。よくわからなかった。

去年から、毎日のように通ってた病院。何も考えてないと病院に向かいそうで。
あゆよりキレイな肌、暖かい肌をもう一回触りたくて。
でも、
こんな、泣き虫なあゆを、
れお、りあ、(甥、姪) はまだ小さいのにあゆのこと気を使ってくれて。
あゆ、今日お泊りしていいよ?
俺の横で寝れるよ!
1人さみしいでしょ?
りあちゃん、一緒に寝てあげるよ?って。

笑顔でいなきゃな と思った。
女姉妹でよかったと本当に思った。
お姉にも頼りっぱなしで。
友達や先輩も気にかけてくれて。
一緒に泣いてくれて。
もちろん、お母さんが1番あゆのこと
心配してくれてて。

この先、気が晴れるなんてことないかもしれない。
でも。。
少しずつ、ゆっくり前に
進もうって思ってます。
なので、こんな私ですが
よろしくお願いします。

そして、

大好きなお母さん。
本当によく頑張ったね。
あゆの誕生日まで待っててくれて
ありがとう。
産んでくれてありがとう。
ゆっくりゆっくり休んでね。

あゆはお父さんとお母さんの
サラブレッドなんだから!


見守っていてね、お母さん。


亜有