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旅二日目は太田市の「金山城」へ



金山城は、文明元年(1469)に新田一族の岩松家純によって築城され、下剋上によって城主となった由良氏の時代に全盛を迎えます。
上杉謙信や武田勝頼などの有力戦国大名から10数回に及ぶ攻撃を受けますが、金山城は一度も落城することなく、その堅固さを誇りました。
しかし、小田原北条氏の諜略に落ちて支配下となっていた天正18年(1590)、豊臣秀吉の北条氏征伐により金山城は廃城となりました。






大手虎口下矢印


実城(本丸)へ向かうための通路を厳重に守っていた一大防御拠点。
高く積まれた石垣は、敵を威圧し、城の威厳を示します。

月ノ池下矢印


大手道を上り切った、大手虎口脇にあり、訪れる者に水の豊富さを見せつけます。


金山の大ケヤキ下矢印


金山城の歴史を見守ってきた樹齢800年の大ケヤキ(市天然記念物)


日ノ池下矢印


戦いでの勝利や雨乞いなどの儀式が行われたと思われる神聖な池。

100名城スタンプを押印下矢印


次の目的地に向かうのですが

ここで、ちょっと脱線しますてへぺろ

少しだけ群馬県を出て埼玉県へ

ちょうどランチタイムだったので

熊谷市北部にある「道の駅めぬま」内の

レストランで何か埼玉らしいランチが

食べたくて

県下1位の生産量を誇るやまといもを使った

「麦とろ御膳」を頂きましたお願い


初群馬に続き、脱線をして初埼玉🎊

行田市へと向かいました

本丸土塁の一部下矢印



当時を偲ぶことができます

ここはどこでしょう??


忍城ですびっくりマーク(写真は忍城御三階櫓です)




忍城は室町時代にあたる15世紀後半に成田氏により築城された城郭です。
戦国時代の終わりに豊臣秀吉の関東平定に際し石田三成らによる水攻めをうける中、小田原城の降伏後に開城しました。
その後、松平家忠による城郭の修復が済んだのち、徳川家康の四男松平忠吉が城主となります。
三代将軍家光の治世には、松平信綱、阿部忠秋が城主となり、以後185年間は阿部家の居城となります。
文政6年(1823)には伊勢国桑名から国替えとなった(奥平)松平家が城主となり、明治維新、廃藩を迎えます。
明治6年(1873)に忍城は解体されましたが、現在博物館の周辺にある本丸土塁の一部や櫓の石垣に使われた間知石から当時を偲ぶことができます。
かつて御三階櫓は、現在の水城公園の付近に建っていましたが、忍城の解体にともない破却されました。
現在、忍城址に再建された御三階櫓には、郷土博物館の渡り廊下から入ることができ、内部は「忍城と城下町」「近代・現代の行田」を紹介する展示室となっています。

行田市郷土博物館も学割で入館できました音符


日本100名城を制覇しようと

日本全国を旅しているのですが

制覇はまだまだ先なのに

続100名城が制定され

禁断の続100名城にも

手を出してしまいました笑い泣き


記念すべき続100名城の初スタンプは

こちら忍城で押印下矢印


埼玉滞在は2時間ほどで

群馬に戻ります

が、それは一旦で

またもや脱線しますてへぺろ

少しだけ群馬県を出て、今度は栃木県へ

足利市に向かいます


日本最古の学校、足利学校です


足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説等がありますが、歴史が明らかになるのは、上杉憲実(室町時代)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、庠主(学長)制度を設ける等して学校を再興したころからです。
天文十八(一五四九)年にはフランシスコ=ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」
と世界に紹介され「学徒三千」といわれるほどになりました。
江戸時代になると、貴重で良質な漢籍を有する文庫として、多くの文人や学者を受け入れました。江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治時代の初めに幕をおろしましたが、足利学校の自学自習の精神は現在に引き継がれています。
昭和五十七年より「史跡足利学校跡保存整備事業」を実施し、平成二年江戸中期の姿に甦りました。
平成二十七年には、水戸弘道館、備前閑谷学校、日田咸宜園とともに「近代日本の教育遺産群」として日本遺産に認定され、更に世界遺産を目指して取組んでいます。
また、生涯学習の拠点として、論語素読体験等の各種事業を行っています。




足利学校は手入れが行き届いていて

清々しい気持ちになりましたキラキラ

数分歩いて、次は鑁阿寺へ



鑁阿寺は、鎌倉時代、建久七年(1197)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。
山号は金剛山。
本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来を祀る。
約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。
またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、大正10年3月に、国の史跡に指定されており、現在では「日本の名城百選」にもなっている。
寺院としては、鎌倉時代初期、1196年(建久7年)源姓足利氏2代目の足利義兼が発心得度し、邸宅内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。義兼死語、その子義氏が建立した本堂は、1229年に落雷により、焼失したが、足利貞氏が禅宗様式を取り入れ改修した。
日本としては禅宗様式への転換期の最初期にあたる。
鎌倉時代から室町時代にかけて寺院として次第に整備され、室町将軍家、鎌倉公方家などにより、足利氏の氏寺として手厚く庇護された。
場内には、本堂のほかにも、鐘楼、一切経堂が国の重要文化財、東門、西門、楼門、多宝塔、御霊屋、太鼓橋が栃木県指定の建造物で、その他、市指定の建造物も多数あり、その他建造物以外にも、彫刻や文書、美術工芸品など、中世来の貴重な宝物類も多数残され、今に伝わっている。

本堂(国宝)下矢印


大銀杏(天然記念物)下矢印






足利市館100名城スタンプを押印下矢印


足利学校から鑁阿寺への町並みを

着物で歩いたら

良い雰囲気だなあって思いました👘

                ~三日目に続きます~