例えば タリバンに拘束された日本人イスラム教徒が、
     本当はタリバンに拘束されていたのに、
     タリバンに拘束されていたのではない という
     発言をしていたら、


私はその誘拐劇は仕組まれたことのように感じるのです。



例えば 身代金をタリバンに渡すことで、
     そのお金の一部が拘束された日本人に渡ることもあるでしょう。

例えば 身代金の授受がされなくたって、
     日本人は名前を売ることができるでしょう。
     彼を無傷で解放したという
     タリバンのイメージアップになることでしょう。
 


どちらにしても両者に損はないのですから。



例えば 数ヶ月間の拘束で
     命をうばわれるかもしれないという
     緊張状態にありながら、断食もこなしたのならば、

 
命の危険のない1ヵ月の断食で
気力も身体もダメージを受けた私よりも
あのつややかな肌や落ち窪んでいない眼光は、
ありえないと思うから。



例えば 私がパキスタン人と接点をもたなかったら、
     上記のような考えはきっと思いつかなかったでしょう。

だって、
保険金詐欺があれば身代金詐欺だってあるかもしれないのだから。



9・11もパキスタンの地震もカラチのテロもマスコミも
イスラム教徒は被害者で加害者はアメリカやユダヤだと
声高に叫ぶ人たちが、
ただ、良かったね とつぶやくその影に、
何かがあるのかもしれないと感じたから。