私が落ち込んでいたのは、
ある方のコメントを読んだからだった。
彼女のおっしゃることはもっともで、イスラム教に照らしてみても、私が間違っていることは明白だったから。
そして彼女の語気はやわらかく、ヒステリーをおこすことのできなかった私は、落ち込むしかなかった。
具体的には、人の悪口を他人に言いふらすのは良くないことであるし、
言うこともいけないし、聞くこともいけないから。
まったくそのとおりだもの。
ネットの利点は見ず知らずの方とも匿名で自分の思いを書けることであるけれど、
でもその反面、人を傷つけても、気がつかないでいることにもなる。
彼女は他のブログのコメントにも”悲しい”と書いたことがあったから。
面と向かっての会話なら彼女(たち)に悲しい思いをさせないで切り上げることだって可能だったのに。
でも、わかってください。
私の知る限り、ほとんどのイスラム関係メディアから見たら、私の考えは異端であるし、絶対に受け入れられないか、信仰が足りないと非難されるか、イスラムを持ち出して丸め込まれるのがおちだった。
だから、ブログにたどり着いて、自分の気持ちを書けることで、私自身ずいぶん変わってきたと思うの。
はじめの頃と変わってきたでしょ?
書かなければ、変われなかった。
だから、イスラム包囲網が、
これから書く人に対しても、
風当たりになってほしくない。
ムスリム新聞140号
今から一年前の3月20日号。私がブログをはじめるちょうど一年前の発行にあたります。
私の投稿文が載っています。
139号に辛らつなパキスタン人批判という投稿文が掲載されて、それに対しての感想としての投稿文を書きました。
Sさんのお手紙を読むことで、私は胸がスーッとしました。
私自身パキスタン人のしかもパンジャブ人の夫をもったことで、目の前に曇りガラスでも置かれたかのように、『信仰があってもこの程度の人たちなのか・・』等、イスラム教自体に不信感を抱いていたものですから、きっぱりとパキスタン人批判をしてくれたことに、救いを得ることができました。
私にとってのパキスタンは夫やその家族、私の友人の夫達のみの、とても狭い環境のなかでありながら、どういうわけか話題にこと欠かない彼らの言動は『国民性だね』という共通項があり、Iさんの文章(138号以前に書かれたもの)に対して憤りを感じていたものの、私に宗教的知識がないことなどもあり、手紙を書くことを控えていました。
この問題が過熱することをHさんは懸念していらっしゃると思いますが、私はむしろ出せる膿は出し切るのがいいと思っているぐらいです。
この手紙をきっかけに反論文なるものがあるとしたらぜひお聞きしたいと思います。オブラートに包むようなことをすれば、溝と落胆は深くなると思います。
どんなハディースも「きれいごとにすぎない」と感じてしまうようになったのは、『自分ではイスラム的ではないのに、最高のムスリムのように威張り、彼ら独自の宗教を押し付けたパキスタン人』が原因ではないかと私が常日頃思っていことこに対して、Sさんのお墨付きをいただいたような気持ちになったのですから。
この手紙の掲載は希望しませんが、Hさんのご判断におまかせいたします。・・・・
一年前の私です。
ブログをはじめて3ヶ月。
今の私は穏やかになれてるでしょ?
私の書いた悪口を、目にして、耳にして、悪行を増やしてしまった方、ごめんなさい。
無理にほじくりだしてパキスタン批判をしたいのでないけれど、
心にたまりそうになったら、やっぱり書いてしまうと思うけれど。
だから、この場所は失いたくない。