私は意地を張っていた。



父が大腸がんで入院をしていた。


最後の入院になるだろうとは医師から聞かされていた。


家族との話し合いで、本人には知らせないことにした。


その頃、義母と妹2人と、弟が来日していた。


おじさんたちはいなかった。


彼らがいたからこそ、私は父のお見舞いにも行くことができた。


小さな子供だけを留守番させることは免れることができたという意味では。



義母と1人の妹と弟は前回来日した時に父に会ったことがある。


義母は言った。”ハンサムなお父さんね”


その父が今は入れ歯をはずし、チューブにつながれて、ベッドに横たわっていた。


意識はある。


会話もできる。


痛みもある。


だから、きっとプライドもあったはず。


私はそんなみすぼらしい父を彼らに見せたくはなかった。



そしてどんなかたちであれ、どんなに時がたとうとも


彼らに興味半分に父のことを話して欲しくはないという強い気持ちがあったから、


彼らの軽口から父を守りたかったから、


彼らのお見舞いを断った。


なんと言われようと、


それだけは拒んだ。


だから、できれば彼らのいるうちには,死んで欲しくなかったのに、


入院からちょうど一ヶ月、


まるでその日があらかじめ医師の手によって決められていたかのように、


モルヒネを投与されて、


今まで、痛みのために、できなかった熟睡ができるようになったのだけれど、


それが深い息にかわり、


けれどそれは心臓に負担をかける薬だから、


父の息は、とても苦しそうで・・・


眠り続ける父を、起こしても起きなくて・・・




その日は朝からずっと母と弟とそばについていた。


こんな晴れの日に旅立つのもいいのかな・・・・と


ふと、休憩に立ち寄ったシュークリーム屋の前で、


ぽつんと思ったりしたすぐあとに、


父は個室に移された。



私は夫と子供を電話で呼んだ。”もうダメかも”


そんなときでも、私は夫に言ったのだった。


他の人は連れてこないで・・・



父の弟と母と弟と夫と私と子供たちに囲まれて、


手と足をさすられて、


みんながふっと父のことを忘れて、


子供の修学旅行の話に笑ったその瞬間に、


みんながふっと気を抜いてしまったその瞬間に、


父はするりと旅立ってしまったのだった、その夕方の青い空にむかって。




いろいろなことが済んだあとに、


友人との電話で号泣する私。


あまりの泣き方に、私を心配する彼らがやってきた。


”たくさん泣いてはいけない。涙の川ができてしまうから。泣くのは死んだ人のために良くないことだから”


泣きたい私の身体を心配してなだめてくれる彼らだった。


そういう義母だって、自分の父親が亡くなったときにはそれは大変な泣き方だったと、ずっと前に妹から聞いていた。身体を壊すのではないかと、周りの人は心配をしたのだと。


でも、他人に対しては、止めるんだろうな。


きっとどちらも愛情なのかもしれない。



そして義母は言った。


”アイシャはまだいいわよ。

私なんかあなたとちがって最愛の大好きな父を亡くしたのよ。あなたよりも辛い思いをしたのよ”


たしかにね、私は父とすごく仲が良かったわけではないけれど、普通に付き合ってこられたのに・・・

なんでそういうふうに言うんだろう?

たしかにあなたの父親を想う気持ちと私の父を想う気持ちを量りにかけられたとして、

たとえ目盛りがあなたのほうへ傾いたとしても、

他人に言ってはいけない言葉だと私は思うんだけれど・・・・

だって、あなたの言葉は私の胸に突き刺さったのだから。





父の死のあとに


私はもう、以前の何も知らなかった少女のように、


笑うことはできないのだろうなと思っていたけれど、


そうでもなくて、


泣いたり、笑ったり、怒ったり・・・


悪あがきをしながら、生きています。


アルハムドリッラー(感謝します)。