どうして昔は会いたくないと思ったほどの彼女のことを書こうと思ったのか。


それは、私の半分しか生きていない彼女が、


大変な辛い思いをされているから。


私にできることは彼女の目が見えるようにドゥアー(願う)することだけ。


でも、私1人の願いよりも、できることならば多くに人に願ってもらいたいと思ったから。



彼女は悪くないの。


でも私は彼女がこんなにたくさんの重荷を背負わなかったら付き合いたくもなかった人。


彼女は夫の友人 I のパキスタン人の奥さん。


I は日本人の奥さんがいるのに、頻繁に国へ帰り、奥さんに内緒で彼女と結婚をし、子どもまで産ませてた。


日本人の奥さんと私は親しいわけでもなかった。


仲が悪いというのではなくって、会う機会がもたれなかったから。


一度奥さんが私の家の玄関先にまで用事のために1人でやってきたことがあった。


彼女は言った” I の家内です”


その物腰が好きだった。生活感が感じられた。


奥さんの方がバツイチで実家に実の子供を預けながらも、


パートをしながら、I と子供はいなかったけれど仲良くしている姿を見かけたこともあったから、


ずっと幸せであって欲しいとどこかで願ってたのだけれど。




離婚が決まってから、


I はすぐに彼女と子供を日本に呼んだ。


私が頑なに彼女と会うことを拒んでいた。


だって、彼女の心のなかに、日本人の女をバカにするような言動がなかったとは言えないのだから


ずっと前に間接的に聞いたことがある。


日本語もあちらの国の言葉を話せるある国の女性が、


”パキスタン人の女性たちは言ってるわ。日本人の○○さん以外みんなはビザのために結婚しているのよ。

そんなことも知らないで。ビザ目的じゃなかったら、誰が日本人の女と結婚するのよ”と噂をしていると。




彼女に会うようになったのは、


そんなわだかまりはどうでもいいと思えるほどの大事件があったから。


この春に何度かの流産を乗り越え、


体調を壊しながらも、パキスタンに帰っていた彼女に、二人目の男の子が誕生し、


I と共に日本に帰国を果たした3日目に、


生後三ヶ月の赤ちゃんと突然お別れしなければならなかったら。


帰国後すぐに体調を崩した赤ちゃんは病院で亡くなってしまったの。


その病院で力なく座り込んでいたのが彼女だった。


寄り添って、日本語で大変だったねと言って、


肩を抱いてあげたのが、ちゃんとした彼女との出会いだった。


でも、悲劇はまだあって、脳の内部に異常が見つかったこともあり、


警察で事情を聞かれなければいけなかった。


日本語もわからない,歳若い、赤ちゃんを亡くしたばかりの彼女には、力なくただ立っているのも辛い状況で、食べ物も飲み物も、吐いてしまうほどの衰弱した様子が寄り添う私にはただただとても悲しかった。



呆然とする彼女。


腕白なだけの何もわからない3歳の息子。


日本に住んでいたことがあっても、彼女には友達が誰もいなかった。


日本人の私と以前チラッと挨拶をした程度で、


パキスタン人女性との付き合いもなかったことを知ったのは、


お子さんが亡くなった夜に、


2人のパキスタン人女性が訪れて話していたのを聞いたから。


お葬式のために、


再びパキスタンに帰国するという彼らの家族。


I は一ヵ月後に彼女は三ヶ月後には帰ると言って、


小さな棺のなかにおさめられた司法解剖をされてしまった赤ちゃんと共に帰っていった。



そして、彼女の目が見えなくなった。


素人の私は思った。心因性のものだろうと。


けれど・・・


脳の手術が行われたと。


そして医者は、見えるようにはならないかもしれないと。



そして今月、I は彼女を日本へ連れてくるという。


なんで・・・?


彼女はこの不慣れな日本で、言葉も分からず、視力も失って、しかも腕白な男の子を抱えて・・・


彼女にとってのメリットはなにもないはず・・・・なのに・・・



もうすぐ彼女のビザが切れてしまうから。


一度切れてしまうと厄介だから。



I は日本の医者に診てもらいたい。


彼女の目が見えるようになって欲しい。


日本では盲人のために教育をしてくれるから。



でも・・・・どうなんだろう・・・・


彼女を待っているのは狭い暗い部屋で、


夫が仕事でいない昼間はまったくの孤独であるはずなのに。


彼女にとっての幸せはここにあるのだろうか・・・


彼女は自分の国で、視力を失った彼女の会話のできるあの国で、


多くの人の手に囲まれて暮らすのがいいのではないのかしら、


だから、


せめて、私にできること。


彼女の目が見えるようになることを願うこと。


そして、彼女のお友達になってあげること。