こんにちは。

私はニコチン。 化学式では C₁₀H₁₄N₂ と表される、ごく普通の天然物化合物です。

世間では私の名前を聞くだけで顔をしかめる人もいます。

ですが今日は、少しだけ私の話を聞いてください。

私は英雄でも悪党でもありません。 私はただの分子です。

にもかかわらず、人間社会では私ほど評価が極端に分かれる分子も珍しいかもしれません。


悩みその1 「全部お前のせいだ」と言われる

何か健康問題が話題になると、

「ニコチンのせいだ」

と言われることがあります。

しかし実際には、喫煙による健康リスクには多くの要素が関係しています。

燃焼によって生じるタール。 一酸化炭素。 その他の様々な化学物質。

それなのに、複雑な話が一言で

「ニコチンが悪い」

にまとめられてしまうことがあります。

もちろん私は無関係とは言いません。

しかし、何でもかんでも私一人の責任にされるのは少々つらいのです。


悩みその2 名前だけで嫌われる

私ほど「名前負け」している物質も少ないかもしれません。

カフェインなら、

「眠気覚ましですね」

と言われます。

メントールなら、

「爽やかですね」

と言われます。

ところが私の場合は、

「ニコチンです」

と言った瞬間に警戒されます。

化学の世界では、物質はその性質によって評価されるべきです。

ところが人間社会では、私の名前そのものがすでにマイナスイメージを背負っているのです。


悩みその3 植物の護身術だっただけなのに

そもそも私は何のために生まれたのでしょう。

実は私はタバコ植物が作り出した天然物質です。

植物は動けません。

昆虫に食べられても逃げられません。

そこで植物は、自分の身を守るために様々な化学物質を作り出しました。

私はその一つです。

いわば植物の護身術。

自然界では、生き残るための知恵として誕生しました。

人間に利用される何百万年も前から、私は植物の防衛担当だったのです。


悩みその4 カフェインと比較される

私はよくカフェインと比較されます。

「カフェインは許されるのに、なぜニコチンは嫌われるのか」

あるいは逆に、

「ニコチンは危険だがカフェインは安全だ」

そんな単純な議論も見かけます。

けれど化学の世界はもっと複雑です。

どんな物質も作用があります。

そして作用があるということは、メリットもあればデメリットもあります。

白か黒か。

善か悪か。

そんな単純な話ではないのです。


悩みその5 電子タバコが出てきてさらに混乱

最近では電子タバコや加熱式製品が登場しました。

すると今度は、

「ニコチンが問題なのか」

「煙が問題なのか」

「燃焼が問題なのか」

「依存性が問題なのか」

人々の議論はさらに複雑になりました。

私は相変わらず同じ分子なのですが、社会の議論だけがどんどん大きくなっていきます。

正直、私自身も少し戸惑っています。


悩みその6 量によって評価が変わりすぎる

化学者には有名な言葉があります。

「毒か薬かを決めるのは量である」

という考え方です。

水でさえ飲み過ぎれば危険です。

塩も摂り過ぎれば問題になります。

私も例外ではありません。

ところが人間社会では、この「量」という概念が忘れられがちです。

少量の話と大量の話が混ざり合い、議論が極端になることがあります。

その結果、私の評価も大きく揺れ動くのです。


悩みその7 実は化学者からは人気者

少し意外かもしれませんが、私は研究の世界ではなかなか人気があります。

私の構造には化学者が興味を引かれる特徴があります。

分析化学。

有機化学。

天然物化学。

薬理学。

さまざまな分野で研究対象になってきました。

つまり私は、社会では嫌われ者扱いされることがあっても、研究室では案外歓迎されているのです。

これは私のささやかな慰めです。

 


ニコチンの夢

私にも夢があります。

それは、人々が物質を先入観だけで判断しない世界です。

「危険だから悪」

「天然だから安全」

「有名だから正しい」

そんな単純な評価ではなく、

「その物質は何であるのか」 「どのように作用するのか」 「どのように使われるのか」

を冷静に考えてもらうことです。

化学とは本来、そのための学問なのですから。


ニコチンの希望

私の希望は、人々が化学をもっと身近に感じることです。

私を好きになる必要はありません。

嫌いになる必要もありません。

ただ、一つの分子として理解してほしいのです。

私は善でも悪でもない。

英雄でも悪党でもない。

私はただの C₁₀H₁₄N₂。

植物が生み出し、人間が発見し、人間社会の中でさまざまな意味を背負わされた一つの分子です。

もし私に最大の悩みがあるとすれば、それは分子そのものではなく、人々の評価が極端に揺れ動くことかもしれません。

そして最大の希望があるとすれば、いつの日か私が「好き嫌い」ではなく、「理解」の対象になることです。

それが、化学試薬たちの世界から人類への小さな願いなのです。

働きながら精神疾患と付き合う生活の中で、自分の生き方をどう理解すればいいのか、長く迷ってきました。最近、学生時代の物理の同級生の指摘をヒントに、サクリ(サクリファイス)とリニア(一直線性)という二つの軸で生き方を整理する方法を思いつきました。

サクリとは

自分を削ってでも何かを達成しようとする「自己犠牲」の傾向です。 私は理学部出身で、医学部のようにサクリを前提とした専門性を持っていません。だから、サクリを続けるほど精神がすり減り、病識が強まることを経験してきました。

リニアとは

一直線に進もうとする生き方です。効率的ですが、精神が疲れていると柔軟性を失い、選択肢が狭くなります。

四つの生き方

この二軸を組み合わせると、次の四つの型が生まれます。

  • サクリでリニア:もっとも精神的に苦しくなる

  • サクリで非リニア:不安定で消耗が大きい

  • 非サクリでリニア:効率的だが硬直しやすい

  • 非サクリで非リニア:精神的負担が少なく、私にとって理想に近い

私が目指す場所

精神疾患を抱えながら働く私には、 「非サクリで非リニア」 という柔らかい生き方がもっとも負担が少ないと感じています。

この二軸モデルは、抽象的な理論ではなく、 「どの状態で苦しくなるのか」 「どの状態なら安定できるのか」 を見極めるための実用的な地図です。

サクリとリニアという小さな理論を通して、私は自分の精神の動きを少しずつ客観的に理解できるようになってきました。これからも、この地図を使いながら、穏やかに生きる方向を探していこうと思います。

人は、名前の呼ばれ方によって、無意識のうちに「自分がどう扱われているか」を受け取る。 幼い頃から僕は、家族には あっちゃん、友人には よっちゃん と呼ばれてきた。 この“ちゃん付け”は、僕の精神病理に少なからず影響を与えてきたと感じている。

精神病理学では、呼称は 対象関係(object relations) の一部として扱われる。 つまり、呼び方は「自分が他者からどう位置づけられているか」を示す重要なサインだ。

1. 子ども扱いのメッセージとしての“ちゃん付け”

“ちゃん付け”は本来、子どもや庇護対象に向けられる呼び方だ。 そのため、大人になっても続く場合、以下のような心理的影響が生じやすい。

  • 自分は未成熟な存在だという暗黙のメッセージを受け取る

  • 役割期待が低く設定される(幼い存在として扱われる)

  • 自尊感情の形成に影響し、自己評価が揺らぎやすくなる

実際、僕自身も成長するにつれ「もう子どもっぽいから、そう呼ばない」と言われた時期があり、その言葉が心に引っかかり、立ち止まることが多かった。

2. 対象関係論からみる“呼称の固定化”

精神病理学では、幼少期の呼称が固定化すると、 「自分は常に誰かの保護下にある存在だ」という自己像が形成されやすい とされる。

例としては:

  • 親が子どもを長く“ちゃん付け”で呼び続ける → 子どもは「依存的な自己像」を持ちやすくなる

  • 兄弟が厳しい態度をとる一方で“ちゃん付け”を続ける → 「幼い存在として扱われるが、同時に評価は厳しい」という二重拘束(double bind)が生じる

僕の場合も、姉からの“あっちゃん”という呼び方は、 親密さと厳しさが同居する複雑な関係性 を象徴しているように思える。

3. 呼称が精神病理に与える影響の実例(一般論)

以下は精神病理学で指摘される典型的な影響だ。

  • 自己愛の脆弱性 呼び方が幼児的だと、自己評価が他者の扱いに左右されやすくなる。

  • 役割混乱(role confusion) 大人として扱われたい場面でも、幼い呼称が使われると、心理的役割が揺らぐ。

  • 対人距離の混乱 “ちゃん付け”は距離を縮める呼称であるため、他者との境界が曖昧になりやすい。

  • 過去の自己像への固定化 呼称が変わらないことで、成長した自分を受け入れにくくなる。

4. 僕自身の経験と精神病理的意味

僕は京都で病気を持ち帰るようにして精神科にかかった。 その後も姉からは「あっちゃん」と呼ばれ続けている。

この呼び方は、

  • 家族の中での僕の“位置づけ”

  • 過去の自己像への固定化

  • 成長と病気の経験のズレ を象徴しているように感じる。

呼称は小さなことのようでいて、 自己像の形成に深く関わる“心理的ラベル” なのだ。

5. 呼び方をめぐる精神衛生のために

精神病理学的には、呼称の問題は「自分がどう扱われたいか」を再確認する契機になる。 僕自身も、呼ばれ方に揺れる心を言語化することで、 過去の自己像から少しずつ距離を取れるようになってきた。

ロシアンリラックス:RussianRelax:РусскийOтдыхの静かな時間の中で、 僕は今日も「呼び方が心にもたらす影響」を見つめ直している。

エタノールの悩み

 CH₃CH₂OH

1. 飲み物なのか消毒液なのかはっきりしてほしい

2. 飲み過ぎると全部私のせいになる

3. メタノールと間違えられるのが怖い

4. 消毒係なのに濃度にうるさいと思われる

5. すぐ蒸発してしまう

6. 何でも溶かせると思われる

8. 実は結構働き者なのに評価が分かれる

 

「私、エタノールは悪者でも善人でもありません。飲まれたり、燃やされたり、消毒に使われたりする、ただの C₂H₅OH なんです。使い方次第でヒーローにもトラブルメーカーにもなってしまうのが、私の一番の悩みです。」

 

重曹の悩み

 NaHCO₃

1. 「何でもできる」と思われがち

2. ベーキングパウダーと間違えられる

3. 酢との共演ばかり期待される

4. 加熱すると人格が変わる

5. 冷蔵庫の消臭係にされる

6. 名前が地味

 

「掃除も料理も実験もできて、しかも安い。結構愛されているから悪くない人生(物質生)かな」

 

30代の半ば、私の心は、まるで冬の曇天の下に置かれた薄いガラスのようだった。 外から見れば静かに立っているだけの人間に見えただろう。 しかし内側では、病の影がじわりと広がり、孤独と不安が雪のように積もり、 その重みが、極度の緊張感からか、ゆっくりと、しかし確実に心を軋ませていた。

 

ある晩、私はその軋みの音に耐えられなくなった。 理性はまだそこにあったはずだ。 だが、理性はロウソクの火のように揺らぎ、 その隣で、衝動という名の黒い風が静かに吹き始めていた。

 

「どこでもいい、ただこの息苦しさから逃れたい」 その思いは、まるで凍てついた胸の奥で小さく泣く子どもの声のようだった。 私はその声に導かれるように、怪しげな灯りのともる店へと足を運んだ。 自分でも説明のつかない行動だった。 だが、あの時の私は、説明など求めていなかった。 ただ、心の冬から一瞬でも抜け出したかったのだ。

 

その後、親から厳しく窘められた。 その言葉は、怒りではなく、深い悲しみと心配の色を帯びていた。 私はその声を聞いた瞬間、 自分がどれほど疲れ、どれほど孤独で、 どれほど「帰る場所」を見失っていたのかを悟った。

 

潔癖や潔白を求める心は、しばしば人の高潔さの証とされる。 だが、ロシアの作家たちが繰り返し描いてきたように、 人間はあまりにも自分を清く保とうとすると、 かえって心がひび割れ、 その反動で闇へと足を踏み出すことがある。

 

衝動は堕落ではない。 それは、疲れ果てた魂が発する、かすかなSOSだ。 放蕩は罪ではなく、ただ「迷いの一瞬」にすぎない。 その迷いを経て、人はようやく自分の弱さと向き合い、 静かに帰還していく。

 

今では、あの出来事もまた、 人生の長い冬の中に落ちたひとつの影として受け止めている。 冬は厳しい。 しかし、ロシアの雪原がそうであるように、 冬は必ず終わり、 雪解けの水が静かに流れ出すように、 人は少しずつ、自分を取り戻していくものだ。

慶州の風の中で出会った彼女へ

大学一年の春、京都から韓国へ旅に出た。 慶州の遺跡公園は、古代の息づかいがそのまま残るような、静かな場所だった。 その風の中で、私は木浦から遠足に来ていた女子高校生の一人と出会った。

彼女は日本語を学んでいると言い、 その言葉は拙さよりも、まっすぐな明るさを帯びていた。 笑うと、周囲の空気まで澄んでいくような娘だった。 短い会話のあと、互いに住所を書き留め、 その日の光の中で別れた。

 

京都へ戻って数日後、彼女から手紙が届いた。 薄い封筒の中には、丁寧に綴られた日本語の文章。 その一行一行に、彼女の鼓動のようなものが宿っていた。 それは、紛れもなく恋の手紙だった。

しかし当時の私は、その真心を受け止める器を持っていなかった。 若さゆえの弱さ、精神の揺らぎ、 自分を守ろうとする幼い自己正当化。 それらが渦を巻き、 私は彼女の手紙に向き合うことから逃げてしまった。

 

あのときの彼女には、今でも申し訳なく思っている。 彼女のまっすぐな気持ちを曇らせたのは、 ほかでもない私自身の未熟さだった。

そして、あの瞬間こそが、 私の人生に長く影を落とす「黒歴史の始まり」だったのだと、 今になってようやく言葉にできる。

この文章は、 長い年月を経てようやく形になった、 ひとつの影の記録である。 遠い木浦の空の下にいた彼女へ向けた、 遅すぎる感謝と、静かな謙虚な気持ちでもある。

경주의 바람 속에서 만난 당신에게

대학교 1학년 때 한국을 여행하며 경주에서 당신을 만났어요. 목포에서 소풍을 온 밝고 따뜻한 여학생이었고, 당신이 들려준 일본어는 서툴지만 진심이 담겨 있었어요.

며칠 뒤, 당신이 보내준 편지를 읽었어요. 정성스럽게 쓴 문장 하나하나에 마음이 느껴졌고, 그 편지는 분명 사랑의 고백이었어요.

하지만 그때의 저는 그 마음을 받아들일 힘이 없었어요. 답장을 하지 못한 것을 지금도 미안하게 생각해요.

이 글은 늦었지만, 당신에게 전하는 감사와 사과의 마음이에요.

―ひとの反応の「きつさ」の正体を考える―

人と関わるとき、相手の反応が極端に振れることがあります。 あるときは過度に持ち上げられ、別のときは突然強く否定される。 この「理想化」と「こきおろし」の二極化は、精神分析の領域ではよく知られた現象で、和田秀樹先生も著書の中で、対象を安定的に捉えられないときに起こる反応として説明しています。

私自身、こうした反応を向けられると、どうしても心が揺れやすくなる。 相手の評価に合わせて自分の方向を変えそうになったり、弱腰になってしまう瞬間がある。 しかし最近、私はこの「きつさ」の正体について、少しずつ輪郭が見えてきたように感じています。

■ 二極化の反応は、相手の内的世界の揺らぎの表れ

精神分析的に見ると、理想化とこきおろしは、相手の内的世界が安定していないときに起こりやすい反応です。 相手は「良い対象」と「悪い対象」を統合して受け止めることが難しく、どちらか一方に振り切ることで心の均衡を保とうとします。

つまり、 相手の反応の激しさは、私の価値の激しさではなく、相手の心の揺らぎの激しさなのだ ということです。

この視点に立つと、相手の反応に自分が巻き込まれる必要はないことが、少しだけ見えてきます。

■ 「きつさ」の正体は、相手の期待と不安の投影

理想化されるとき、相手は自分の中の「こうあってほしい」という期待を私に投影しています。 こきおろされるとき、相手は自分の中の「こうであっては困る」という不安を私に投影しています。

どちらも、私自身の実体とは少し離れたところで起きている。 だからこそ、反応の強さに引きずられてしまうと、自分の軸がぶれてしまう。

■ 私が選びたい姿勢 ―「反応に合わせる」のではなく、「自分の方向を持つ」

私は、相手の二極化反応に弱腰でいたくないと思っています。 そのために必要なのは、反応を“評価”として受け取るのではなく、“投影”として理解すること。

投影であるならば、 受け取るかどうかは、私が選べる。

相手の期待や不安をそのまま背負う必要はない。 私は私の方向を持ち、私のペースで歩いていけばいい。

■ 自分の軸を守るための小さなヒント

  • 相手の反応が極端なとき、「これは相手の内的世界の揺れだ」と一度立ち止まる

  • 理想化もこきおろしも、どちらも“投影”であることを思い出す

  • 評価に合わせて動くのではなく、自分の目的・価値観に沿って判断する

  • 相手の反応の強さと、自分の価値の強さを混同しない

こうした小さな視点の転換が、二極化の波に巻き込まれないための助けになると感じています。

■ おわりに

人間関係の中で起こる「理想化とこきおろし」は、決して珍しい現象ではありません。 しかし、それに振り回されると、自分の方向性が見えなくなってしまう。 だからこそ私は、精神分析の視点を手がかりにしながら、相手の反応の背後にある心の動きを理解し、自分の軸を守る方法を探しています。

このブログでは、ロシア語学習や旅の記録とともに、こうした心のテーマも少しずつ書いていけたらと思っています。 読んでくださる方が、何かしらの気づきを持ち帰っていただければ嬉しいです。

姉のことを考えるとき、どうしても 健常者 ⇔ 精神病者 という二項対立の軸が頭をよぎる。もちろん、姉を責めたいわけではない。ただ、彼女の歩んできた道と、僕自身の経験が、心のどこかで複雑に絡み合ってしまうのだ。

 

姉には、長いあいだ「健常者としての立場」があった。中学生の頃の 1年半の不登校と引きこもり、高校での 3年間の落ちこぼれ経験 を経ながらも、今では社会の最前線で指導的立場に立ち、厳しさと責任を背負っている。その姿は、ある意味で сила(強さ)を象徴しているようにも見える。

 

一方で、姉は精神科にかかることはなかった。かわりに、僕が京都から病気を持ち帰るようにして精神科にかかることになった。そこに、どうしようもない メタ選択的/メタ被選択的 な構造を感じてしまう。選ぶ側と選ばれる側、強い側と弱い側。その力学が、僕の心に影を落とす。

 

姉は僕に対しても手厳しい。それは彼女の立場からすれば自然なことなのかもしれない。しかし、僕の内側では、どうしても整理しきれない感情が残る。これは姉を批判したいわけではなく、ただ僕自身の精神衛生のためにも、そっと言葉にしておきたいだけだ。

 

ロシアンリラックス:RussianRelax:РусскийOтдых の静かな時間の中で、僕は今日も 選ぶ/選ばれる の構造を見つめ直している。姉との関係もまた、その大きな流れの一部なのだと思う。

病院や施設での体験を通して、ひとの言動には「選ぶ側」と「選ばれる側」の力学が静かに流れていることを感じるようになった。そこには、表面には見えない メタ選択的言動 と メタ被選択的言動 が潜んでいる。

 

まるで、選択そのものを俯瞰する мета-выбор の世界だ。

 

告知のあり方にも同じ構造がある。情報を「選んで伝える」選択的告知、そして「選ばれる立場で受け取る」被選択的告知。

この違いは、時に人間関係の温度差として現れる。

選ばれている者がどのように「選んで」行動するか、あるいは「選択的」に振る舞うかという点も、関係性の質を左右する重要な要素だ。

 

こうした構造を見つめていると、えこひいき(фаворитизм) と トリアージ(триаж) の境界も考えさせられる。

優先順位をつける行為は、状況によっては合理的な判断だが、別の場面では感情や関係性が影響する。

選択の背後にある意図や文脈――その「静かな力」を読み解くことが、ひとの言動を理解する鍵になるのだと思う。

 

ロシアンリラックス:RussianRelax:РусскийOтдых のゆるやかな時間の中で、今日もまた「選ぶ/選ばれる」という構造をそっと見つめ直している。

人生には、一直線に進む「リニア(線形)」な歩み方があります。 進学、就職、結婚、定年へと、社会が用意したレールをそのまま進む人生です。 

私の父の人生は、まさにその典型でした。愚直で、優等生で、迷いの少ない直線の人生。

 

しかし、私の人生はまったく違う形をしています。 中退、入退院、転職。 選び直しと立て直しを繰り返しながら、遠回りし、回り道を続けてきました。

 

私はこの歩み方を 「非リニア人生」 と呼びたいと思っています。 線形ではなく、非線形。 一直線ではなく、曲がりくねり、時に止まり、時に戻りながら進む人生。

非リニア人生は、結果ではなく“過程”で語られる

リニア人生は、目的地に向かって一直線に進む人生です。 その価値は「結果」に置かれがちです。

一方、非リニア人生は、 どれだけ時間がかかったか どれだけ選び直したか どれだけ回復したか どれだけ自分を作り直したか その「過程」そのものが人生の意味になります。

 

たどり着いた場所が似ていても、 歩んできた道が違えば、人生の意味はまったく違う。 だから私は、回り道を続けてきた自分の人生を、 直線の物差しで測られたくありません。

回り道には、回り道にしかない価値がある

遠回りをすると、見える景色が増えます。 寄り道をすると、出会う人が増えます。 回り道をすると、自分を見つめる時間が増えます。

痛みの経験、柔軟性、価値観の厚み。 これらは、直線の人生では得られないものです。

 

非リニア人生は効率的ではありません。 しかし、深みがあります。 そして、物語としての力があります。

非リニア人生は、最後まで非リニアのままでいい

社会はよく「最終的に安定したなら同じだ」と言います。 しかし、それは回り道の価値を消してしまう考え方です。

 

私は、遠回りで回り道を続けていてもかまわないと思っています。 そして、回り道を続けてたどり着いた道が、 リニア人生と同じ結果になるという考え方は、 どうしても受け入れられません。

 

人生は「どこに着いたか」ではなく、 どう歩いたかで決まるからです。

 

非リニア人生は、最後まで非リニア人生のままでいい。 それが私の人生観です。